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 早朝とはいえ、夏特有の空気が紗霧の身体にじっとりと絡みつく。
 そのあまりの寝苦しさに耐えきれず紗霧は眼を開けた。
 のそのそと寝台から下りると窓際に近寄りカーテンを勢いよく引く。キィという音を立てながら窓を全開にすれば、途端に室内へと風が入り込んで火照った身体の熱を僅かに下げてくれる。

「う〜〜〜っ、気持ちい良い!」

 両腕を上に高く伸ばして強張った筋肉を解す。そして思いっきり深呼吸して新鮮な空気を体内へと送り込めば、寝起きで鈍っていた思考も徐々にハッキリとしてきた。

「・・・今日で終わりなんだよなぁ」

 窓辺に肘を乗せ、眼下に見える見事な庭園を瞳に映しながら紗霧は感慨深く呟いた。
 この一月という期間が紗霧にもたらした影響は驚くほど大きい。何よりも紗霧を変えたのはウィルフレッドという存在だっただろう。『王子』の妃選びは今日という日をもって終わりを告げるが、紗霧がウィルフレッドと歩む未来は今日これから始まる。
 当然紗霧に不安がないわけではない。見知らぬ世界で暮らしていくという心細さは今でも付き纏っている。
 それでもウィルフレッドの傍に在りたいという想いの方が遥かに勝り、そして未知へ生活に対する期待に心が躍った。
 そうなると紗霧のすべきことは目下一つしかない。最後となった戦場へと赴くための準備を整えることだ。
 さて、と紗霧が窓際から離れたその時、コンコン、と扉を軽く叩く音が室内に響いた。

「サギリ様、お目覚めですか?」

「うん。入っても大丈夫だよ」

 紗霧はコクンと頷いてリルを室内へと招き入れる。

「おはよう、リル」

「おはようございます、サギリ様」

 爽やかな笑顔を見せるリルに、紗霧も同じように笑みを返す。
 何か憑き物が落ちたようなすっきりとしたリルの表情に、紗霧は密かに胸を撫で下ろした。
 今のリルには紗霧が熱を出して寝込んでいた頃の顔色の悪さは見られない。何せあの頃のリルといったら、病人である筈の紗霧よりも余程病人らしかった。顔色は白を通り越して最早土気色になっており、眼は寝ずの看病の所為で真っ赤に充血していたのである。状態を見かねた医師が休息を促すも、リルは頑なに首を振ってずっと紗霧に付き添ってくれていたのだ。
 登城してからというものリルには心配をかけっぱなしで、紗霧は本当に頭が下がる思いで一杯だった。
 しかし、ついつい甘えてばかりだったリルとも今日で最後。ウィルフレッドの傍に居ると誓った紗霧はリルと別れなければならなかった。

「リル、本当にありがとう。リルには感謝してもしきれない恩が沢山あるね」

 じんわりと涙が浮かんできた。
 今日で最後だと思うとやはり寂しさが募る。だが最後だからこそ、少しでもリルに感謝の気持ちが伝わってくれればと思う。

「?突然どうしたんですか?」

「ん、あのさ俺。此処に・・・ウィルの傍に残ることにした。だからリルとは今日でお別れなんだ。それで最後にお礼だけは言いたくて」

「サギリ様・・・」

「リルのこと大好きだよ。あのね、俺はリルのことを本当のお姉ちゃんだと思っているんだ。だからつい甘えちゃったこともある。・・・でもリルにとっては俺なんかが勝手にそんな風に思っちゃって迷惑だったかな?」

 おずおずと上目使いでリルの表情を窺う。
 心配ばかりかけてしまったという自覚はある。フッとこれまでの数々の出来事が紗霧の脳裏に浮かび上がった。そうなると途端に不安に駆られ、顔が次第に曇り始める。
 だがリルは、そんな紗霧の心を吹き飛ばすかのようにふんわりと優しげな笑みを浮かべた。

「いいえサギリ様。わたくしのような召使をその様に想ってくださってとても光栄でございます。わたくしも厚かましいながら、サギリ様をとても大切な弟だと思って接してまいりました。ですからもしサギリ様のお許しが頂ければ、わたくしはこれから先もサギリ様の御側にお仕えしたいと思っております。ご迷惑でしょうか?」

「え?」

 リルの言葉に信じられないとばかりに呆然としていた紗霧は、ハッと我に返ると勢いよく首を横に振る。曇っていた表情がたちまちパァっと輝いた。

「迷惑な筈がないじゃん!!嬉しいに決まっている!!で、でもグレイスさん達は・・・」

「旦那様も奥様もきっと許してくださると思います。お二方ともサギリ様をとても大切に想っておりますから」

「い、いいの・・・?多分俺はこれからもリルに気苦労をかけると思うけど」

「気苦労だと思ったことはありません。ですが、もしわたくしの心配を少しでも取り除いて頂けるのであれば、これからは無茶な行動を控えてくださると嬉しく思います」

「うん!これからはあまり無茶な行動に出ない・・・・・・と思う」

「・・・サギリ様」

「あ、あははは〜〜。・・・・・・・・・・・努力します」

「そうして頂ければ幸いです」

 暫しの沈黙が下りると、二人は顔を見合せて同時に噴き出した。
 最後の大舞台が開演するまでの僅かな時間。部屋は穏やかな空気に包まれた。









                                            update:2008/11/24






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