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寝台の上で紗霧は困ったように眉根を寄せた。
理由はただ一つ。目覚めてからこの数日、引っ切り無しにウィルフレッドとアークライトが紗霧の元を訪れているからだ。しかも1日に何度も何度も。だがどうやら忙しい仕事の合間を縫って抜け出しているらしく、その度にゲッソリとやつれきったセオドアが連れ戻しに来て渋る彼等をどうにか宥めて連れ帰る。その繰り返し。
つい数分前にもアークライトがここに居たがやはりセオドアの迎えがあり、嫌々ながら、といった表情を浮かべながら戻って行った。
彼等の訪れに嬉しいかどうかと問われれば紗霧は素直に頷くだろう。心配を掛けているといった意味では申し訳ないとは思っているが、それでも自分のことを気に掛けてくれるのは嬉しいものである。
しかしそれはアークライトに限定することで、正直ウィルフレッドに対して紗霧は複雑な想いだった。もしかしたらウィルフレッド前でそう思う心が態度に出ていたかもしれない。一瞬だけとはいえウィルフレッドの表情が曇るのを紗霧は何度も見た。
「はぁ・・・」
思わず溜息が出る。ウィルフレッドが悪いわけではない。原因は全て自分にあることは分かり切っていた。
ウィルフレッドを前にすると高鳴る心臓。背を向けられるたびに引き留めたい衝動。傍にいなければ何をしているのだろうかと考えてしまう心。
紗霧にはこの想いに付ける名など知らない。
再び深い溜息が洩れた。紗霧の視線が正面の時計へと向けられる。何時もならそろそろウィルフレッドが訪ねてくる時間なのだ。次第に気が重くなる。けれどどこかでウィルフレッドの訪れを期待する自分もいる。
暫し時計の針をボゥと眺めていた紗霧だが、扉の向こうが俄かに騒がしくなる気配に気付く。軽く扉を叩く音がしたので紗霧がどうぞ、と促せば、やはり扉の向こうにはウィルフレッドが佇んでいた。
「サギリ、身体の調子はどうだ?」
ウィルフレッドの何時もの第一声だ。
紗霧の体調は回復し、怪我していた手首と足首も最早完治といっても差し障りはなかった。それでもウィルフレッドは紗霧の身体を心配そうに窺う。そんなウィルフレッドに対して心配ないとばかりに紗霧は満面の笑みを浮かべた。
「そうか、良かった。・・・・・・サギリ、もし時間があるのなら今から遠乗りに出かけないか?医者の許可は貰っているのだが・・・」
「遠乗り?―――行く!絶対に行く!!」
一つ返事で紗霧は了承した。何せこの数日、熱や怪我の所為でずっと寝台の上で過ごしていたのだ。いい加減に運動不足の度合いを超えている。これ以上寝台に縛り付けられたままであれば余計に病気になるところまで紗霧はストレスを抱えていた。少しでも身体を動かすことが出来るのならば、それこそ願ったり叶ったりである。
「すぐ行くから待っていて!リル、動きやすい服装をお願い!」
寝台から勢いよく飛び降りた紗霧はうきうきと足取りも軽く早速衣装室へと向かう。その後ろ姿を見たウィルフレッドは苦笑していたのだが、既に背を向けていた紗霧は気付かなかった。
***
「風も気持ちいし、天気も良いし、もう最高っ。文句無し!!」
「そうか、それは良かった」
馬で駆け、十分に楽しんだ紗霧とウィルフレッドは湖の畔に腰を下ろしていた。浮かんでいた汗も引き、心地よい風だけが身体に感じられる。
出来ればより風を感じるために鬱陶しい長い髪も足に纏わりつく長いドレスも紗霧は脱ぎ棄てたかったが、やはりそうもいかなかった。正体を知られたウィルフレッドの前で女装するなど恥ずかしいこと極まりないが、しかし紗霧の正体が露見したといってもそれは僅か数名のみ。ここで気を抜くわけにはいかないと羞恥心を抑えて再び『シュリア』になったのだ。
紗霧は風に靡く長い髪を耳にかけ、ただ静かに光を弾いて揺れる水面を眺める。何とも長閑な時間が二人の間を流れていた。
だが紗霧の頭の中では様々な言葉がぐるぐると回っていた。ウィルフレッドに話したいこと、話さなければならないことが紗霧には沢山ある。だが緊張のあまり話の切っ掛けが掴めなかった。こうして二人っきりになることなど本当に久しぶりだったのだ。今までの紗霧なら話の切っ掛けが掴めないなどいうことは有り得ないことで、それが益々紗霧に緊張感を与えていた。
「・・・とうとう明日に迫ったな」
ふとウィルフレッドが感慨を込めてそう言葉を口にする。
ウィルフレッドの言う『明日』とは、皇位継承権を有する王子が『正妃』を選ぶ日。つまり紗霧が城へ来てから明日で1か月が経つのだ。そして明日になれば紗霧はこの城から去らなければならない。
「・・・そうだね、明日で全てが終わる」
長いようで短い日々。楽しい思い出ばかりが紗霧の脳裏に浮かぶ。その中でも最も楽しかったといえるのはウィルフレッドと過ごした日々。これほどまでに充実した日々を送ったことは紗霧にはなかったが、明日にはウィルフレッドと別れなければならない。
途端に紗霧の心臓が強く締め付けられた。理由の分からない涙が込み上げてくる。
紗霧はふるふると首を横に振って出来るだけ明るく振舞おうと笑顔を浮かべた。
「俺はやっとこの似合わない女装姿から解放される。そう考えれば少しは嬉しいかな」
「いや、それは十分に似合っていると思うが」
「ふ〜〜〜ん・・・ウィル、どうやら俺に喧嘩売っているようだね。何なら買うよ?久々で本調子とはいかないだろうけど、それなりに負けないから」
「い、いや、止めておく」
「それは残念。最後にウィルともう一戦交えたかったのになぁ」
焦るウィルフレッドの姿に紗霧は笑った。
やはり何を話そうかと頭で考える会話ではなく、ただこうして以前の様に気軽に軽口を言い合えるのはとても楽しかった。
だがウィルフレッドは紗霧の言葉を耳にすると途端に口を噤む。何か気に障ることを言ったのだろうかと訝しく思い、紗霧がウィルフレッドの顔を覗き見ればそこには真剣な瞳で見つめ返すウィルフレッドの瞳があった。
紗霧の心臓がトクンと一際高く鳴る。
「サギリ、そのことだが・・・」
「・・・な、に」
「覚えているか?『サギリの熱が下がったら、改めて私の想いを伝えよう』、その言葉を」
「・・・・・・うん。覚えている、というか思い出した」
熱で朦朧としていた所為であの時のことはあまり覚えていない。けれど熱が下がり、体調が戻ったその時におぼろげながらもウィルフレッドの言葉は記憶の片隅に残っていたのだ。
「そうか」
ウィルフレッドの眼が細められる。
「ならば改めて伝えたい。私はサギリを心から愛している。明日で最後だと言ったが、これからもこの城に残って私の傍らに居てほしい。どこへも行かないでほしい」
「俺、は『シュリア』じゃ・・・ない」
だから無理だ、という言葉を言葉尻に含めて俯くと、ギュッとドレスを握り締める。するとその両手の上にウィルフレッドの手がそっと重ねられた。
「サギリが『シュリア』であろうがなかろうが、それこそ何者であろうとも構わない。この一か月、自らの目で見てきたサギリが全てだと私は信じている」
「ウィル・・・」
顔を上げた紗霧の視線の先には自信に充ち溢れた笑顔を見せるウィルフレッドの姿。その表情に紗霧は思わず魅入ってしまった。
「私は心の欠けている人間だ。何者も信じられず、何者にも心を許すことはしない。人を愛するなど所詮虚妄のことだと思っていた。空しいだけだと考えていた。だが違ったのだ。サギリを想った時、私は人を愛するというがどういうことか気付いた。人を愛するという気持ちがどういうことなのかを知った」
「そんなの、俺は知らない・・・。それに俺は男、だ」
「そうだな。だが私はサギリを愛している」
「何で!?だって、俺は男なんだよ!?」
「人を愛することは理屈ではないのだ」
理屈でなくても紗霧が男であることは真実なのである。それでもウィルフレッドは構わないということなのだろうか。同性を好きになる気持なんて紗霧にはそれこそ理解出来なかった。
「それに俺はウィルを欺いていた!ウィルは騙されていたんだよ!?」
「それこそ悪意を持って私を騙していた訳でないのだろう?」
「・・・・そう、だけど」
「なら良い。サギリ、私を諦めさせようとしても無駄だ。私はこれまで幾多もの人々を欺いてきた。だからこそ私自身の心には嘘を付きたくない」
「心に嘘を・・・?」
紗霧はウィルフレッドが頷くのをどこか呆然と見ていた。
update:2008/9/28