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 ウィルフレッドの手がソッと紗霧に向かって伸ばされた。
 呆然と見つめる紗霧の髪を細く節々とした指は優しく梳いてゆく。元来紗霧が持つサラサラと癖のない柔らかな黒髪は指の隙間から流れるように落ち、ウィルフレッドをどこか楽しませた。飽きることなく何度も何度も繰り返されるそれは、不安げに揺れる紗霧の心をどこか宥めているかのようにも感じられる。
 だが心配ないと言ったきり言葉を発しないウィルフレッドに対して紗霧の表情は益々強張った。焦りにも似た思いが限界に達する寸前、ようやくウィルフレッドの口が開かれる。

「そう、サギリが心配することは何もない。何故なら『王子』は妃候補者を強制的に召集するようなこのような悪しき儀式には元より異論を唱え続け、廃止すべきと考えている。そこから生み出されるものは決して良い結果にはならないからな。実際にサギリが良い例だろう」

 グッと言葉に詰まる。反論することなど紗霧には出来なかった。

「もちろん妃候補者が自ら望んで参加するのは良い。だが候補者で在るより前に人だ。その自由な意思を剥奪する権利なんて誰も持ち得ない。だからこそ、王族としての血統を守るためとはいえあのような身勝手な掟を強要し、人としての尊厳を踏み躙る様な時代錯誤な因習は唾棄しなければならないのだ」

「じゃ、じゃあグレイスさん達は・・・」

「彼等に科されるような法は近く改正される。仮に国の大臣達が刑の執行を求めようとも『王子』は決して許しはしないだろう。その権威にかけてな」

「よかった〜」

 もちろんサギリもそうだ、というウィルフレッドの後に続く言葉は紗霧の耳には届かなかった。紗霧にとって何より欲しかったのはグレイスに咎がないという言葉だけ。その言葉だけが紗霧を心から安堵させた。
 ホッと胸をなでおろした瞬間、紗霧の瞳から涙が零れ落ちる。

「わ、何だこれ!・・・う〜〜恥ずかしいなぁ、もうっ」

 張り詰めていた気が抜けたのだろう。ボロボロと止めどなく流れ落ちる涙を袖でゴシゴシと擦りながら紗霧はエヘヘ、と照れたように笑った。
 そんな紗霧に向かって再びウィルフレッドの手が伸び、涙で濡れた頬を指の腹がソッと撫でる。紗霧は静かに瞳を閉じてウィルフレッドその行為を受け止めた。優しく穏やかな時が二人の間を流れる。
 だがそう長くは続かない。その時、空気を裂く勢いで扉が左右に開かれた。

「サギリが目覚めたって!?」

「ほひゃっ!?―――お、王子!?」

 持ち前の運動神経でもってベリッとウィルフレッドの手を振り払った紗霧は、突如として部屋に現れたアークライトを見て目を丸くし、身を硬直させた。
 どうしてここに、と混乱する頭で必死に考えるが、アークライトの背後から覗くリルと医師の姿に一瞬にして状況を把握した。どうやらリルは医師だけでなく、紗霧が目覚めたことをアークライトにも報告したのだろう。そこでようやく紗霧の緊張が解かれた。
 だが紗霧に手を思いっきり振り払われてしまったウィルフレッドだけは恨めしそうにアークライトを睨む。良いところで、とばかりに向けられた鋭い視線はアークライトを容赦なく突き刺した。

「ウィル何だか視線が痛いけど。・・・あぁ成程ね、何となく理由は解った。全く俺の所為にするんじゃないよ。八つ当たりもいいとこ。そんなことよりサギリ。気分はどう?痛いところはない?何か欲しいものがあれば―――?」

「ぶはっ!!」

「へ?」

 突然お腹を抱えて爆笑した紗霧にアークライトは呆気に取られた。
 アークライトが困惑げにウィルフレッドを見れば、まるで苦虫を噛みつぶしたような顔付きにぶち当たる。そんな二人の表情を見て、尚も笑いの壺に入った紗霧は我慢できずに枕に顔を埋めて一層アークライトを戸惑わせた。

「〜〜〜も、申し訳、ございません。あははっ、その、王子が先程のウィルと全く同じようなことを仰った、ので・・・っ、ついっ」

 笑いが収まらない中で必死になって紗霧は弁解する。『王子』を笑うなどということは本来あってはならない。だが頭では理解していても簡単に収まってくれるはずもなく、紗霧は寝台の上をバシバシと何度も叩いた。
 紗霧の様子を複雑そうに眺めていたアークライトの視線がウィルフレッドへ向かって、心底嫌そうに顔が歪む。

「う〜ん、ウィルと同じっていうのは正直勘弁して欲しいかな。だってウィルって腹黒いし、我侭だし、その上に鬼畜だしね。ほら、優しさと包容力を併せ持つ俺とは全然違うでしょ?」

 アークライトはにっこりと誰もが魅了されるような笑みを浮かべた。だが残念ながら紗霧には効果がないようで、更なる笑いの渦に巻き込まれている。

「ほぅ・・・言ってくれるな。その台詞、是非ともセオドアに聞かしてやりたいものだ。さて、どう反論してくれるやら」

「・・・ウィル、それって卑怯じゃない?」

「お前がサギリに余計なことを吹き込むからだ」

「だからって―――っ!」

 心ゆくまで笑ったお陰か、目の端に涙を溜めながらも何時の間にか平静さを取り戻していた紗霧の手が軽くウィルフレッドの袖を引っ張った。
 2対の目が紗霧へと向けられる。

「ん?どうしたサギリ」

 ウィルフレッドの言葉の意味を一瞬計り兼ねたように紗霧は首を傾げたが、すぐさま自分の取った行動に気づきパッと手を離すと顔を真っ赤に染め上げた。

「へ?・・・あぁあああああ!!こ、これはそのっ!何でもない!!」

「何でもないって様子では―――」

「何でもない!本当に何でもないから!!」

 ウィルフレッドの言葉を途中で遮ると紗霧はブンブンと首を振って否定する。
 問われても紗霧には答えられる筈がなかった。まさかウィルフレッドと親しげな様子を見せるアークライトに嫉妬したなんて―――。

(俺、何か変だ!そんなこと思うなんてっ。だって有り得ないだろ!?俺とウィルは親友なのに!)

 これ以上ないくらい顔を朱に染め、頭を抱えて唸りだした紗霧にウィルフレッドとアークライトは互いに顔を見合わせて首を傾げる。
 そしてその傍で最早存在を忘れられたリルと医師は所在無さげに佇みながら、彼等の様子をどこか遠い目をして眺めていた。









                                            update:2008/8/31






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