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 ふわり、と優しい温もりに包まれた。
 まるで壊れ物に触れるかのようにそっと、だがどこか力強く触れてくるそれに嫌悪感は全くない。何故ならこの温もりは何時でも自分を助けてくれるものだと、守ってくれるものだということを紗霧は直感的に感じ取っていたのだ。
 心地よさに身を委ねていた紗霧は、意識の半分で自分が寝ているだろうということをどこかで自覚していた。目覚めなければと思うのだが、もう少しだけこの優しさに包まれながら微睡んでいたいとの思いの方が遥かに勝る。
 だが突然、その温もりが消えた。
 まだ足りないと不満そうに眉を顰めると、紗霧のその想いに答えるように熱は戻ってきた。与えられる心地よさにホッとしていると今度は優しく頭を撫でられる。何度も何度もまるで愛しむかのように。
 それが嬉しくて紗霧の口元が無意識にふにゃっと緩む。その途端に何故か手は止まり、持ち主からは一瞬息を飲む気配がした。あくまで気配なので実際にそうだったか分からない。怪訝に思っていると手は紗霧の頬を滑るように下り、軽く顎を持ち上げた。
 反射的にその指から逃れようと顔を背けた紗霧だが、逃さないとばかりに追ってくる手に両頬を捕らえられる。何なんのだと顔を曇らせた紗霧の唇に柔らかな感触が下りた。
 だがそれは一瞬だけの出来事。
 暖かく柔らかな感触はすぐに離れ、それはまるで夢の続きが見せる幻のような感覚だけが残る。離れてしまった温もりの正体を確かめる術はない。
 その時、再び強い睡魔に襲われた紗霧は追及することを放棄し、逆らうことなく暗闇にその身を委ねた。


***


 ふっ、と何の前触れもなく覚醒した紗霧の目に最初に飛び込んできたのは見慣れぬ天井。いや天蓋というのだろうか。寝台を覆うかのように垂れ下がる幕は紫紺のビロードに金糸、銀糸を惜しげもなく織り込んだ一見して高級だとわかるそれ。芸術がなんたるものか全く理解していない紗霧とて思わず見惚れてしまうほどに繊細かつ美しいものだった。

(・・・・・・え〜〜と?)

 不思議そうに紗霧は眉根を寄せた。
 天蓋を見上げて疑問符を飛ばしつつ紗霧は必死で記憶を探る。だがいくら懸命に考えたところで見覚えがないものはない。

「ここ、どこだっけ?」

 誰かに問うのではなく無意識に呟いた独り言だったが、直ぐ傍らから息を飲む音が聞こえた。驚いて気配の方へと首を巡らせれば寝台の横、手の届く位置に透き通るような緑色の眼を大きく見開きながら瞼を何度も瞬かせる男性が座っているではないか。

「・・・・・・サ、ギリ?」

「あれ?ウィル、だよね。・・・何でここに?」

「サギリ様!!」

「ん?リルも?二人してそんな驚いた顔してどうしたの?」

 ウィルフレッドの背後に控えていたリルも、まるで何か信じられないものを見たかのように驚愕に眼を見開いている。
 何時になく動揺する二人の姿に紗霧も困惑の色を隠しきれない。

「サギリ!!」

「は、はい!!」

 突然ウィルフレッドに大声で名を呼ばれて紗霧の眠気が一気に吹き飛んだ。反射的に寝台の上から飛び起きると背筋をピンと伸ばし、右手を高く掲げる。
 だが次の瞬間、ズキリと激しい頭痛と眩暈に襲わる。身体を支える感覚を失い、グラリと力なく身体が傾いだ。慌ててウィルフレッドが両腕で受け止めてくれなければ確実に地面とお友達になっていたに違いない。

「!?何をしている!未だ安静にしてなくては」

「・・・俺の所為じゃない気がするんだけど」

   頭痛に顔を顰めながら伸ばされた腕にしがみ付き、誰の所為だよ、とばかり唇を尖らせてウィルフレッドをギロリと睨み上げた。すると紗霧の視線を真正面から受けてめていたウィルフレッドのその表情がフッと和らいだかと思うとまるで嬉しそうに眼が細められ、軽く口角が持ち上がる。
 瞬間、ドキリと紗霧の心臓が跳ね上がった。

「どうやら大分回復したようだな。気分はどうだ?痛いところはないか?何か欲しいものは?」

「ふへ!?―――ちょ、ちょっと待った!そんないっぺんに言われても・・・」

 何故か高鳴る心臓に動揺を隠せない紗霧は、自分の身に起きた変化をウィルフレッドには知られまいとうんうんと唸りながらも必死になって身体の不調を探す。
 
「えっと、・・・そういえばちょっと頭が痛い、かも?」

 怪我をしていた手や足は殆ど治癒したのか今のところ特に痛みを感じない。それでも痛む箇所を無理やりにでも挙げれば、先程からズキズキと微かに痛みを訴える頭だろうか。

「何だと?!―――リル、急ぎ医師を!!」

「はい!」

「そんな大げさな。俺は大丈夫だから医師は呼ばなくて・・・ハッ?!医師?!」

 一瞬にして頭の中がクリアになる。今の紗霧にとって『医師』という職業を生業としている者は鬼門中の鬼門だ。それをこの場に呼ぶなど以ての外である。それをリルも理解しているはずなのに、どうやら紗霧の身体を気遣うばかりにその事に関して記憶が吹っ飛んでいるようだ。
 訳の分からない自分の内に起きた変化を隠そうとした結果、知られてはならない最大の秘密が露呈してしまったとなればそれこそ目も当てられない。性質の悪い冗談である。

「―――ちょ、ちょっと待ったリル!!」

「急いでお連れ致しますので!!」

「ち、違ぁ〜〜う!!―――っいてぇ」

「サギリ、無茶をするでない!」

 大声を上げた所為で再び頭痛に襲われる。それでも痛む頭を押さえて懸命にリルを止めるが、無情にも紗霧の制止は届かなかったようだ。

(リルリルリルぅっ〜〜〜!!医師を呼ばれちゃマズイんだって!!身体を調べられちゃ一発で『男』だってバレるんだってば!!)

 戻って来て!と強く念じるが既にリルの姿は扉の向こう。リルに向かって伸ばしていた紗霧の右手はポトっと力なく寝台の上へと落ちた。

(あぁあああ〜〜〜、どどどどど、どうしよう!!や、確かに。ウィルには俺の正体を打ち明けようとは思っていたけど。でも!こんな急に心構えもなく不可抗力的なバレ方は冗談じゃないっ・・・ってか、ちょっと待て?!もしかして、ここで男だってことがバレたらウィルや医師だけじゃなくて芋蔓式に王子とかにもそれが伝わるんじゃ・・・?!)

 サァと紗霧の顔からは血の気が引く。想像したのは何が何でも避けなければならない最悪な結末だ。

(な、何とかこの場から逃げなくっちゃ!!)

 冗談じゃないとばかりに紗霧は寝台から下りようとするが、ウィルフレッドの両腕に阻まれ再び寝台の上へと戻される。もちろん強引にではなく、紗霧の身体に負担を掛けない程度の力だ。何時もの紗霧ならばウィルフレッドの気遣いに気付いたはずだが、今はそれどころではない。兎に角、この状況をどうにかしなければという焦りが勝った。

「〜〜〜〜っウィル!」

「分かっている。今は大人しく横になっていろ。すぐに医師が―――」

「俺は元気なんだ!」

「・・・は?」

 何を言っているんだと、怪訝そうにウィルフレッドは紗霧の顔を覗き込む。
 そのウィルフレッドに向って紗霧は精一杯の笑顔を作った。多少引き攣ってしまったのは見逃してもらおう。

「もうこれ以上ないくらいに!それこそ今すぐにでもフルマラソンを走れそうなくらい。あぁ、フルマラソンってのは42.195kmを走ることで、えっと、ここで使われている単位に換算するとどれくらいの距離になるんだっけか・・・って、そんなことはどうでもいいだろ俺!と、兎に角、ここからグレイス領まで走って帰れそうなくらい(いや、流石にそれは無理だけどっ)体調は物凄く良いんだ!」

 混乱している所為か途中で論点がずれてしまう。自分自身に突っ込みを入れて軌道修正しつつ、紗霧は如何に己が健康で医師を必要としないかを右拳を強く握って力説した。

「サギリ?」

「だから医師に診てもらう必要性を感じないし、それに頭が痛いのだって医師に診てもらうほどのものでもないし!だからだから・・・」

「落ち着けサギリ。何を心配しているんだ?」

「そ、それは・・・」

 ポンっと肩に手を置かれ、グッと言葉に詰まってしまう。医師に身体を調べられたら一発で男だと露見してしまうなどと言えるわけがないのだ。
 確かにウィルフレッドにだけは、自分が本物の『シュリア』でないことを打ち明ける覚悟は出来ている。
 だがそれにはもう少しだけ時間が欲しかった。この場を乗り切るための言い訳などではなく、紗霧が考えたこと、思ったことを全てウィルフレッドに嘘偽りなく真実として伝えることができるための時間が。
 だからといって不審そうに見つめてくるウィルフレッドをこの場で納得させる言い訳も考え付かない。
 どうしようかと考え、唸る紗霧は更に痛みを訴え始めた頭を思わず抱え込んだ。

(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・チョット待テ)

 何だかとてつもない違和感がする。
 紗霧は抱え込んでいた頭を掌でもって感触を確かめながら、その違和感の正体に気付いて再び血の気が引いていくのを感じた。
 ここ最近になって漸く慣れた長ったらしい鬘の重量感がない。そのお陰か後ろ首辺りの風通しが良いのも随分久々のような気がする。それに手に触れる髪の毛の質感が嫌に覚えのあるもので・・・。
 まさか、嘘だ、そんな事はありえないだろう、と半ば現実逃避しかけている紗霧の思考は悪戯に空転した。

「サギリ?」

「ふへぇあ??!!」

 奇声を発し、ガバッと勢いよく顔を上げた紗霧の瞳は驚愕に見開かれる。そしてウィルフレッドをこれ以上ないくらい強い視線で凝視した。
 何だか幻聴が聞こえたような気が、ウィルフレッドの口から有り得ない名詞が飛び出したような気がする。
 否、寧ろ幻聴であってくれと紗霧は心の底から強く願った。

「いいいいいい、今!何て!?お、俺の名前っ」

 ゴクリと自分の唾を飲み込む音を紗霧は意識の外で聞いていた。









                                            update:2008/6/30






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