――――56
『・・・どうしたんだろう?』
父が、母が、妹の紗良までもが何故か悲しみに沈んでいる。
これまで見たこともない彼等の表情に紗霧の心がザワリと騒いだ。
『何か、あった?』
知らない間に何か不足の事態でも起こったのだろうかと不安になる。毎日が幸せだといわんばかりの笑顔で満たされていた家族は今そこにはいない。沈痛な面持ちで項垂れる彼等の様子に紗霧は胸騒ぎを覚えた。
未だ何が起きたか状況を把握することが出来なかったが、兎にも角にも家族の元へ駆けなければという思いに駆られて紗霧は慌てて一歩踏み出す。
―――だが次の二歩目は叶わなかった。
『え、何だコレ?!冗談だろう??!!』
不可解な現象に愕然となる。紗霧と家族との間を断つかのように突如薄いガラスの様な透明な『壁』が行く手を阻んだのだ。その所為でこれ以上彼等の元へと近づくことは出来ず、紗霧は見えない壁の前で呆然と立ち尽くした。
『・・・・・・何、なんだよ・・・!』
ガッと紗霧は拳を叩きつける。だがソレは割れるどころか傷一つすら入らない。紗霧はジンッと激痛を訴える拳を逆の手で包み込んで痛みに耐えた。
どうやらそれはガラスの様相を見せるがやはりただのガラスではないということなのだろうか。紗霧は理由もつかない強迫観念に駆られ身体が震えた。
それでも言葉に出来ない不安感を振り払うように家族の名を必死で叫びながら壁を何度も殴打し続ける。しかしこれ程までに紗霧が名を呼び、そして拳を壁に叩きつけているというにも関わらず、彼等は何故か一向に紗霧の姿に気付く様子はない。だが紗霧は諦めることなく彼等を呼び続け壁に拳を叩き続けた。
どれくらいの時間が経ったのか。
永遠にも感じた時間に突如として変化が訪れた。
『っ?!今度は何だよ!!』
手を止めると紗霧はギリリっと唇を噛み締めてその変化をジッと見つめる。すると僅か数メートル先に居る家族の姿が徐々に薄くなって消えかけていくではないか。紗霧の焦りが頂点へと達した。
『父さん、母さん、紗良!!』
心臓が鼓動を早める。
嫌な予感が脳裏を掠めた。
恐慌状態に陥った紗霧は全身で壁に体当たりする。激痛に身体が痺れるが、それでも紗霧はどんな犠牲を払ってでも己と家族を隔てるものを壊したかった。彼等の元へと行けるのならば例えその身体がどうなろうが構わなかったのだ。
だが紗霧の必死な想いとは裏腹に、無情にも向こう側にいる家族は残像を残して消えていく。
『や、嫌だっ、待ってっ!!』
「―――ギ、・・・リっ」
『俺を置いて行かないで―――!!』
「サギリ!!」
突如、白い光が視界全体を覆う。
身体を揺さ振られて紗霧は唐突に意識が覚醒した。
「・・・・・・っ!?」
視界一杯を覆う顔に驚き、紗霧は大きく目を見開く。悲鳴を上げなかったのは奇跡に近いだろう。紗霧はひゅっと息を呑み、眼を瞬かせた。
「大丈夫、か?大分魘されていたぞ」
気遣うような言葉に紗霧は戸惑うように眉を顰めた。今のこの状況が理解できなかったのだ。
安堵したかのような表情を見せ離れていく男を紗霧は呆然と目で追う。
こちらの方が現実世界で、先程までいたあの悪夢のような世界が夢だということは何となく身体の気だるさから理解できた。が、この男はだれだろうかとぼんやりと考える。
目覚めたばかりの所為か上手く思考が纏まらず、紗霧は目の前の彼を見ても誰だか解らかったのだ。
ただ見返すだでそれ以上の反応が無い紗霧にいぶかしんだのか、身を案じるような表情を見せる男に紗霧は益々困惑する。
(誰だろう・・・?)
懸命に記憶を辿るが頭に霞がかかったように上手く思考することが出来なかった。
紗霧は上体を起こそうと寝台に手をつく。
(やばっ)
予想外に鉛のように重い腕で懸命に起き上がった紗霧の目の前がグラリと歪む。まずいっ、と思った瞬間に身体が傾くが、慌てて差し出された男の腕に支えられたお陰で倒れこむことはなかった。
(・・・嘘、何で・・・?俺・・・この腕、知っている。)
紗霧は男の顔をじっと見つめた。
力強い腕。包み込むような優しい温もり。そして心配そうに覗き込む瞳は、何時かどこかで見た懐かしい色彩だ。
紗霧には男の記憶は無い。だが全身に走った感覚が『知っている』とそう告げているのだ。
(・・・・・・・・・・・・・あぁ、そうだ・・・。何で忘れてしまってたんだろう)
パンと頭の中で何かが弾けたようにもの凄い勢いで様々な情報が紗霧の頭に飛び込んでくる。男に関する記憶も溢れんばかりに流れ込んできた。
陽光を弾く様な黄金の髪、エメラルドの瞳。そして誰もが羨むだろう造形の整った輪郭。
紗霧はくしゃりと顔を歪めた。
何故忘れることが出来たのだろうか。彼は気付くと何時も傍に居て、危険な時は必ず飛んで助けてくれたのに。
紗霧の唇が一つの名を告げるためにそっと開かれる。
「ウィ、ル」
だが震えるように囁かれた声は絶望に近い喪失感を帯びていた。
紗霧は全てを思い出した。
現実を。
自分が置かれた状況を。
この世界には家族も友も存在しない事実を何もかも。
「・・・ぐっ!!」
咽喉奥から込み上げてくるものを飲み込むように紗霧は口元を手で覆った。無理矢理飲み込んだ所為で生理的な涙が溢れ出る。視界が歪み、ウィルフレッドの輪郭がはっきりと瞳に映らなかった。
そう、これは全て紗霧にとっての現実。家族さえも傍に居ない。見も知らぬ場所に人。此処はこれまで居た世界ですらない。先ほど見た夢は正に紗霧にとっての『今』の現状を如実に現わしていた。
これまで家族を想ったことは何度もあった。だが夢に見たことはなかった。何故ならそれは記憶を無意識に封じ込めていた所為。家族を思い出せば会いたくなる。帰りたくなる。だが紗霧にはやらなければならない事があり、今は自分のことではなくグレイス達の方が大事だったからだ。
だが、今なら解る。本当は思い出すのが怖かった。
家族や友と過ごした日々をどうして忘れることができるだろう。それは決して薄れることはない。鮮やかな色彩を纏った思い出は、何時でも記憶から引き出す事が出来るというのに。
「―――父さんっ、母さんっ、紗良!」
何の疑問も抱くことなく当たり前のように送っていた日々が紗霧には懐かしかった。平凡だが幸せだった日常から引き離されるなんて誰が予測出来るのだろう。人の力を遥かに超えた作用に抗える術なんかない。
それでも紗霧は諦めることなんか出来なかった。元の世界へ還りたいと、家族に会いたいと心の底から願わずにはいられなかった。これまで無意識に封じていた記憶が止まることなく次々と脳裏に甦る。夢でみた懐かしい情景に込み上げてくる想いが形となって瞳からはブワッと涙が溢れ出た。
「う、っく・・・っ!!」
後から後から留め留めなく瞳から溢れ出たそれは頬を伝って落ち、手の甲で弾け飛ぶ。必死で声を押し殺し、紗霧はギュッと両手を握り締めた。
「・・・泣くな。私が直ぐにでも会わせてやる」
縋って泣くことをしない紗霧をウィルフレッドは悲しげに見つめる。涙で濡れた頬を包むようにウィルフレッドの手が触れ、後から後から流れる涙をそっと掬い取った。
だが紗霧はウィルフレッドの言葉に微かに首を振る。『違う』、と口を衝いて出そうになる言葉をグッと唇を噛締めることで飲み込んだ。何故ならそれは決して告げてはならない真実だと紗霧の中に残っていた僅かな理性が告げる。
しかし高ぶった感情は最早紗霧の意志では抑えることが出来なかった。堰を切った想いは涙となって次々と零れ落ちてゆく。
「も、嫌だっ。何で俺?どうして俺でなければならなかったの?」
何度問うたか解らない。答える者など誰一人とて居ないと解っていても。
「俺は・・・、一人、だ」
孤独感に襲われ、紗霧は両手で顔を覆うと声を殺して泣いた。小さな身体を更に小さく丸めて肩を震わせる。
指の隙間から洩れる声が痛々しかった。そんな紗霧の姿に耐え切れず、ただ静かに見つめていたウィルフレッドは儚く、脆く砕け散りそうな紗霧をこの世に留めるかのように身体を引き寄せて強く抱きしめる。
「・・・――う、ああぁぁっ!!!」
ウィルフレッドの優しい腕の中に包まれ、紗霧は我慢できずにとうとう声を上げて泣いた。しがみついた腕に指を食い込ませ、縋るように泣き叫んだ。
そしてそれは紗霧がこの世界へ来て初めて自分の為に流す涙だった。
***
どれほどの時が経過したのだろうか。漸く紗霧の涙も枯れ気持ちも幾分か落ち着いたが、突きつけられたのは変わらない現実だった。虚しさだけが残ったが、それでもウィルフレッドから伝わる確かな温もりは紗霧の荒れた心を少しずつだが確実に癒してくれた。
穏やかな気分で瞳を閉じていた紗霧の耳元にウィルフレッドは顔を近付けるとそっと囁く。
「私がいる」
「・・・?」
「一人ではない。私がこの先ずっとサギリの傍にいる」
紗霧は気付いてはいなかった。ウィルフレッドが『サギリ』と名を呼んでいることを。己のことで精一杯の紗霧にはそんな僅かな変化に気付かない。ただウィルフレッドの告白に『解らない』と首を振ると己を抱きしめて離さない腕の持ち主を戸惑うように見上げた。
「なん、で?」
「愛しているから」
「愛・・・?ど、して俺なんかを?」
ウィルフレッドの目が細められ、柔らかな微笑が口元に浮かぶ。まるで慈しむかのような表情を間近で見てしまった紗霧の心拍数が異常なほど跳ね上がった。
何故だか不思議と泣きたくなるような熱い想いが込み上げてきて、紗霧は咄嗟にウィルフレッドから視線を外す。ドクンドクンとこれまでになく力強く脈打つ心臓に戸惑い、そんな自分に混乱した。
「そうだな。サギリの熱が下がったら、改めて私の想いを伝えよう」
頬を紅潮させて心臓を押さえていた紗霧は、ウィルフレッドの言葉に我に返る。
「ね、つ?」
そういえば、と紗霧はのろのろと手を持ち上げると掌を額に当てた。確かに伝わってくるのは何時もより高い体温だ。熱があることを意識してしまえば身体がより不調を訴えた。頭もフラフラとして、意識が朦朧としてくる。身体からはドッと力が抜けてしまい、紗霧は再びウィルフレッドの腕の中に全身を預けることとなった。倒れこんだ身体は再びウィルフレッドの腕に包み込まれる。
「だから今は身体を癒すことだけを考えろ」
「ウィル、は?」
「ここにいる。だから安心して静養するのだ」
耳元で優しく囁かれ、労わるような手でソッと寝台の上へと戻される。
不安げに見つめていたのだろうか。ウィルフレッドは紗霧の不安を取り除くように何度も優しく頭を撫でた。
(気持ち良い・・・)
紗霧の口元が自然に綻ぶ。
最後にこうして頭を撫でられたのは紗霧がまだ幼かった頃だ。同じ様に熱に浮かされている時に少しでも辛いのが和らぐようにと母親が撫でてくれた。幼い頃の自分はそうされて安心したのを覚えている。手の大きさや堅さは違うが、今あるこの手もその時と同じで心が安らいだ。
眼を閉じ、暫しウィルフレッドの手の感触を次第に襲い来る睡魔と共に受け入れる。そうして暫く心地よさげしていた紗霧だが、フッと眼を開けるとウィルフレッドの手をギュと握り締めた。
「ありがと」
言葉は吐息と共に吸い込まれるように消える。熱の所為で潤んでいた瞳は閉じられ、聞こえてきたのは安堵したかのような寝息だった。
ウィルフレッドは上気した頬を優しく指でなぞる。そしておもむろに腰を浮かすと、寝ている紗霧の唇を掠め取るかのようにそっと軽やかに口付けた。
update:2007/9/5