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「・・・――俺は・・・、ヴェレスから離れません」

 紗霧はアークライトを睨みつけた。
 本来ならばそのような行動は王族に対する不敬罪として問われる。
 紗霧もそれは理解していた。
 だが今、紗霧の頭を占めるのはただ一つ。
 哀れにも紗霧の腕の中で震える女性の処遇であった。

「王子がヴェレスを決して傷付けないと約束していただけるまでは絶対に。それでもヴェレスを切り捨てると仰るのであれば、その時は・・・」

 紗霧はぎゅっと唇を噛締める。
 予想外であっただろう紗霧の行動にウィルフレッドやアークライトだけでなく、既にヴェレス以外の者を一人残らず拘束した親衛隊の面々も固唾を呑んで見守っていることを紗霧は気付いていた。

 彼等はこの状況を見てどう思うのだろう。
 道理も何も解らない子供が安っぽい正義を振り翳していると見ているのだろうか。
 それとも、貴族の娘が何を酔狂な事をとでも思っているのかもしれない。
 紗霧は自分でも馬鹿な事をしているという自覚はあった。
 この行為を偽善というならばそうかもしれない。
 でもだからといって、彼等の目を気にしてこのまま危機的状況に陥っているヴェレスをただ傍観するだけというのは紗霧にはどうしても出来なかった。
 ならば紗霧が取るべき行動は最初から決まっている。
 誰に何と言われようと最早何の迷いもない。

 紗霧はもう一度だけ、腕の中で小刻みに震えるヴェレスを力強く抱き締めると覚悟を決め、ゆっくりと閉じていた目蓋を持ち上げる。
 そう。もしヴェレスの辿る運命が『死』という選択しかないのであれば――。

「俺もヴェレスと同じ運命を辿るまで」

「!?」

 驚きのあまり、紗霧を除く全ての者が息を呑んだ。
 そして紗霧に真っ向から挑むように視線を捉えられているアークライトだけは、その黒曜石のように黒く輝く瞳に紗霧の揺るがない決意を垣間見た。

「・・・どうしてそこまでヴェレス嬢を庇うの?こんなにも酷いことをされたのに」

「・・・解りません」

「解らない?」

「はい・・・」

 困惑げに眉を寄せるアークライトと同様に、紗霧も綺麗に弧を描く眉を寄せた。
 決してアークライトを揶揄したのではなく、言葉は紗霧の本心から出たものだ。
 この気持ちを自身でも理解出来ていない紗霧には、アークライトの問いかけに対する答えを持ちえてなかった。
 だが本能が告げる。
 『この腕の中にある命を救わなければ』と。

「誰かを助けたいと思う気持ちに理由なんか必要ないと思います。それが例え酷い仕打ちを受けた相手であろうと、きっと俺は同じ行動を起こすでしょう。―――・・・それはヴェレスとて例外ではありません」

「・・・・・・」

「ここで彼女を見放したら絶対後悔すると思うから」

「シュリア嬢、君は・・・」

 アークライトは言葉を失った。
 逸らすことなく真っ直ぐに視線を向けてくる紗霧をアークライトは凝視する。
 ウィルフレッドも親衛隊の面々も言葉はない。
 ただ沈黙だけが辺りを支配していた。

「・・・・・もうよい。その剣を下げろ」

 その静寂を破るかのようにウィルフレッドの声が静かに響き渡る。
 紗霧に魅入っていたアークライトはウィルフレッドのその声に弾かれたように我に返ったが、ウィルフレッドの言葉を理解した途端、信じられないとばかりに目を瞠った。

「はっ。―――ウィル?本気で言っているの?」

 まさか冗談だろ?と言葉尻に含めてアークライトは嗤う。
 これ程までの蛮行をウィルフレッドが赦すとは到底思えなかった。常のウィルフレッドならばヴェレスの命は既にない。
 だがアークライトの思惑を裏切るかのようにウィルフレッドは首を軽く横に振った。

「下げろ。・・・シュリアの前でこれ以上の血は流す事は許さん」

「・・・・・・・・解ったよ」

 渋々頷きながらも、それでも完全には納得がいかないとばかりの態度でアークライトは肩を竦めると血で濡れた剣を一振り払い鞘に仕舞う。
 その一挙一動に固唾を呑んで見守っていた紗霧は完全に収められた剣を見てようやく安堵の吐息と共に肩の力を抜き、そして額に浮かんだ汗を袖で拭った。
 だが汗を拭う紗霧の手はブルブルと震えて止まらない。

「・・・ヴェレス、もう大丈夫だ」

 紗霧は心の底に密かに芽生えた恐怖を誰にも悟られぬよう首を振って必死で払うと、腕の中で震えるヴェレスの傷に障らぬよう上からソッと退く。
 その途端、ヴェレスは弾かれたように紗霧を力の限り突き飛ばすとアークライトの足元に縋りついた。
 ヴェレスの突然の行動に驚いた紗霧は受身を取ることが出来ず、突き飛ばされた勢いのまま尻餅をついてしまう。
 呆然とヴェレスの背を見つめる紗霧の元へ慌ててウィルフレッドが駆け寄ると紗霧を抱き寄せた。

「ヴェ、レス・・・?」

「・・・お、王子。わたくしはっ!!」

 先刻は俯いて見えなかったが、アークライトを見上げたヴェレスの顔は溢れ出る涙でグショグショとなっていた。
 綺麗に施されていた化粧は涙と共に流れ落ち、髪を振り乱す今のヴェレスに以前の気品と有り余る自信を漲らせていた面影はない。
 既にヴェレスの瞳にはアークライト以外の者は見えていないのだろう。
 そうでなければ彼女がこの世から存在を消したいと思うまでに憎んだ紗霧の前で、これほどまでの醜態を晒すとは決して考えられない出来事だからだ。

「おう、じ。わ、わたくしは貴方様を心より、お、お慕いしております」

「・・・」

「す、全ては貴方様のお傍に在りたいという、せ、切なる願いの為にわたくしはっ。決して謀反を、く、企てた訳ではなく――」

「もういい」

「っ!!??」

「貴方の戯言は最早聞くに堪えない。これ以上俺を不愉快にさせるのならシュリア嬢がいくら庇い立てしても容赦しないよ」

 ヴェレスの哀れな姿は見る者の悲哀感を起こさせるが、見下ろすアークライトの表情には何の感慨も浮かんではいなかった。
 侮蔑を込めた眼でアークライトは縋りつくヴェレスの手を無情にも振り払う。

「あ、ああ、いああぁぁぁああぁああ!!!!!!!!」

 アークライトの強い拒絶に、ヴェレスはまるでこの世の終焉を見たかのように顔を醜く歪めるとその場に力無くへたり込んで泣き崩れた。
 不安げに成り行きを見守っていた紗霧は、ヴェレスの泣き崩れた姿を見て悲しげに目を伏せる。
 かつてこれほどまでに人が絶望した姿を紗霧は見たことがなかった。
 5大貴族として誕生した女性であれば一度は夢見るだろう『王妃』の称号。
 現にヴェレスはその高貴なる地位を切望した。
 目指す先に立ちはだかる障害を消してしまおうと思い至るまでにその望みは強い。
 露呈してしまえば一族諸共『極刑』という道を辿らなければならないという危険を伴ってまでもヴェレスは全てをかけたのだ。
 にも拘わらず『王子』に拒絶されてしまったヴェレス。
 その心はどれ程までに傷付き、壊れただろうか。
 ヴェレスの嘆きをまるで自分の痛みのように感じて、紗霧は心が強く締め付けられた。
 紗霧の瞳からは涙が一筋零れ落ちる。
 だが紗霧とは裏腹に、ウィルフレッドとアークライトのヴェレスに向ける眼差しの冷ややかさは変わらなかった。

「・・・―――ヴェレス嬢を拘束しろ」

「いやぁああっ!!!わたくしに触らないで!!―――王子!!!!」

 アークライトの命を受け、すぐさまヴェレスの左右に親衛隊が立つと『失礼します』、とヴェレスに声を掛けてそれぞれ手を拘束する。
 本来ならばこれ程までの重大事件を起こしたものは逃亡を図れないよう幾重にも縄を掛けられるのが常なのだが、ヴェレスは身分の高い貴族であるためその敬意を評し縄を掛けられる事はない。
 だがヴェレスは髪を振り乱して親衛隊の手を振り払うとアークライトに必死に懇願する。
 しかしアークライトはヴェレスを視界に捉えることはない。
 ヴェレスの側をスッと抜けると、ウィルフレッドの腕の中でヴェレスを想い、顔を曇らす紗霧の前で膝を折った。

「シュリア嬢。ご免ね、恐かったでしょう」

 慈愛に満ちた目を細めて、アークライトは紗霧の髪を優しく梳いた。
 アークライトの手の中で本来の紗霧の髪でない濃紺色の髪がサラサラと揺れる。
 その一房を掌に乗せるとアークライトは口付けを落とした。

「王子っ!!!!!!〜〜っこの女は貴方を誑かそうとなさる卑しい女です!!!騙されては―――ひっ!!」

 紗霧を抱き締めたままヴェレスを見るウィルフレッドの目が鋭く細められる。
 いい加減、我慢ならないとばかりに深く溜息を吐いたアークライトは、剣呑な目つきでヴェレスを振り返った。
 二人から迸る殺気にヴェレスは怯え、言葉を失う。

「・・・シュリア嬢が恩情を掛けてやったのに貴方は救いようもない程の愚か者だな」

「!?お、おおおおおおお王子!!ヴェレスは気が立っているだけです!!ですからっ――」

 紗霧は自分に伸ばされていたアークライトの腕をガシっと縋るように掴む。
 アークライトは腕を掴まれたことによって反射的に視線を戻したその先で、ブンブンと必死で左右に頭を振る紗霧を見た。
 懇願するかのような紗霧の瞳とぶつかったアークライトは再び深い溜息を吐く。

「・・・・早くヴェレス嬢をこの場から連れて行け!!」

「なっ!?お前達!!わたくしを誰だと心得ているのです!!その穢れた手で触れるでないっ!!」

 親衛隊に囲まれ部屋から連れ出されたヴェレスの声は、扉が音を立てて閉まった後でも扉の向こうから甲高い声が響く。
 そして部屋に残されたのは、紗霧を含むウィルフレッドとアークライトだけとなった。
 ヴェレスが出て行った扉をジッと見つめていた紗霧は、ヴェレスの声が途切れた事でようやくアークライトと正面から向き合う。

「あの、王子。今回の事でヴェレスは・・・」

「シュリア嬢、もうヴェレス嬢の庇い立ては無意味だと思うよ。彼女は君の好意を尽く無下にしている。これ以上はウィルが黙っていない」

「ウィルが!?」

 紗霧は己を抱き締めるウィルフレッドとアークライトの顔を交互に見た。
 だがウィルフレッドは何も語らない。
 アークライトは先程までとは打って変わって、ニッコリと紗霧に笑顔を向ける。

「そう。彼女の処分は全てウィルに委ねられてた。『何で?』なんて聞かないでね。こちらにも事情ってものがあるから」

「・・・解りました」

 紗霧は不満げに頷く。
 先に追求を許さないと釘をさされてしまってはそれまでだ。
 疑問が残るが、それよりも大事な事はヴェレスの処遇である。
 ウィルフレッドに委ねられたのならば彼女を救う希望はあるかもしれない。

「ウィル、俺は先に戻って医師の手配を。シュリア嬢のこと任せたよ」

「あぁ」

 アークライトは立ち上がると『急げよ』、と言葉を残して部屋から出て行った。
 扉が閉まったと同時に、突然紗霧はウィルフレッドに強く抱き締められる。

「いっ!?――ウィル、痛いよ!」

「す、すまない」

 慌てて紗霧を身体から放したウィルフレッドだが、暫し紗霧の顔を見つめると今度は壊れ物を扱うようにそっと抱き締めた。

「よくぞ無事でいてくれた」

「ウィル・・・俺」

 何故だろう。
 ウィルフレッドの表情に感情の色はなかったのだが、その何もない表情の下にウィルフレッドの泣き出しそうな顔が紗霧には見えた。
 紗霧は僅かに身体を離すと、無意識に鉛のように重い右手を持ち上げてウィルフレッドの頬にそっと触れる。
 それはまるで、ウィルフレッドを慰めようとするかのようだ。
 しかしすぐにその手をウィルフレッドに取られて口付けを落とされる。
 右手に巻かれていた包帯にはヴェレスに踏みつけられた所為で血が滲んでいたのだが、ウィルフレッドは嫌悪することなく何度も掌に優しい口付けを落とした。
 そんなウィルフレッドの行動に、紗霧の頬が朱に染まる。

「・・・私が辿り着くまで頑張ったな」

「う、ん。何故かウィルが助けてくれるって信じていたから。それまで絶対に死ねないと思ったんだ」

「・・・そうか」

 ウィルフレッドの口角が僅かに上がった。
 そして紗霧の額に口付けが一つ落とされる。

「ありがとう、ウィル」

 ふわっと花が咲き誇るような笑顔を紗霧はようやく見せた。
 だがその笑顔は瞬く間に消える。
 顔から血の気が引いていくのが紗霧には解った。

「でも、もう駄目。限界みたい。ごめん・・・ヴェレスのことお願い・・・絶対助けてやって・・・ね」

「シュリア!?」

 次第に遠ざかる意識の中で紗霧が見たのは、焦った顔のウィルフレッド。
 それを最後に紗霧の意識は闇の中へと消えていった。









                                            update:2007/6/11






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