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「ねぇ・・・わたくしは誰?」

「・・・は、はい!?」

 か細い声がヴェレスから発せられた。
 だがヴェレスの視線は紗霧の方へと向けられることない。瞬きすら忘れた青い瞳は、目の前で繰り広げられている惨状へと視線が定められている。
 ヴェレスの瞳には真実この光景が映し出されているのだろうか。紗霧は思わずヴェレスを凝視した。
 そんな怪訝そうな紗霧の視線をその身に浴びながらも、傍らに立つヴェレスは一向に微動だにせず再び口を開く。

「答えてくださらない?」

 喧騒の中でヴェレスの冷静な声だけが異質であった。
 追い詰められた状況である筈のヴェレスは語調を荒げることも、また錯乱状態に陥ることもない。

(もしや未だにこれが現実だということを理解してはいないのか?)

 紗霧は眉を顰めてヴェレスを見上げた。何故だか胸騒ぎを覚える。

「ねぇ・・・」

「あ。――え、えっと、『ヴェレス・エルレア・レスター』?」

「・・・そう、そうよ。わたくしはレスター家の直系。選ばれし者だわ」

 ヴェレスは何度も何度も口の中で呟く。
 すると驚く事に、ヴェレスの色の抜けていた頬が次第に赤く色づき、虚ろだった瞳は輝きを取り戻し始める。だがそれは、決して正気と呼べるような輝きではなかった。
 徐々に『己』という個を取り戻したヴェレスは妖しい光を瞳に宿したまま、右足首を抑え床に蹲る紗霧を見下ろす。そして口の端を限界まで吊り上げて微笑んだ。

「レスター家の者にとって失態は決して赦されないわ。そうでしょう?」

 真紅の紅をさした唇が紗霧の眼に鮮やかな色彩をもって映し出される。
 何かが紗霧の背筋をゾクゾクと刺激した。
 頭の中では警鐘がガンガンと鳴り響く。
 紗霧は煩いくらい弾む心臓をドレスの上から押さえてゴクリと唾を嚥下した。

「・・・・・・・・何が言いたい」

「これは全て貴方が見せる悪夢よ。貴方さえ消えてしまえば、わたくしはこの世界から目覚めることが出来るの」

「なっ!?――これは夢じゃない、現実だ!!」

「きっと全てが元通りになるわ。だから貴方・・・早々にわたくしの前から消えて・・・?」

 ヴェレスには紗霧の言葉がまるで耳に届いてないようだ。
 軽く小首を捻ったヴェレスの身体が、突然フラっと紗霧の方へと傾ぐ。
 あっ!っと驚いて、紗霧がヴェレスに向かって両腕を伸ばした次の瞬間、キィーンと超音波のような音が紗霧の鼓膜を刺激した。

「ヴェレ・・・ぐっ!?」

 紗霧が気付いた時既に遅し。
 ガッと驚くほどの素早さでもってヴェレスは紗霧の細首へと両手を絡めると、女性が到底出せる力ではない握力でもって締め上げてきた。

「!か、はっ」

 息が出来ない!その事実に紗霧は混乱に陥る。
 紗霧はヴェレスの手から逃れようと必死で抗った。だがそんな紗霧の抵抗が気に障ったのだろうか。ヴェレスはムッと眉を顰めると紗霧を床に押し倒してその身に馬乗りになると、更なる力を込めて締め上げてきた。

「まだ消えてくださらないの?」

(・・・ヴェ、レス)

 視界が徐々に霞み始めた。周囲の喧騒も遠ざかっていく。
 ヴェレスの狂気から逃れようと抗っていた紗霧の腕からは力が抜け、床にパタリと落ちた。
 最早抵抗する力は残っていない。
 紗霧には、渾身の力を込めて己を死へと追いやるヴェレスをただ静かに見つめる事しか出来なかった。

(俺はどれだけ彼女を追い詰めたのだろうか・・・)

 これ程までの殺意を真っ向からぶつけるのだ。
 紗霧が考えている以上に、ヴェレスにとってはこの国の『王妃』という地位が己の存在の全てだったのだろう。
 今にも消え果てそうな命を感じながら紗霧の心を占めるのは憎しみ、不安、恐怖のどれでもない。ただ一つ、哀しみという感情だった。

「シュリア様!!」

 朦朧とした意識が完全に落ちる寸前、セオドアの切羽詰ったような叫び声とヴェレスの耳を劈かんばかりの悲鳴が紗霧の耳へと届いた。
 同時に首に回されていたヴェレスの手が離れ、そして紗霧の肺には急激に酸素が送り込まれる。

「――かっ、ゲホッ!!」

 紗霧は激しく咳き込んだ。眼には生理的な涙が溢れ出る。
 助かったのだ。
 そう意識するよりも先に、紗霧は視界を遮る涙を乱暴に拭うと咄嗟にヴェレスを探した。
 セオドアの声と同時にヴェレスの物凄い悲鳴が上がったのだ。彼女の身に何かが起きたに違いない。
 己を殺めようとした者の身を案じるなど到底考えられない事だが、それが紗霧という人物なのであった。

「ヴェレス・・・!?」

 紗霧が探すまでもなく、ヴェレスは紗霧が手を伸ばせば直ぐにでも届く位置に居た。
 だが様子が変だ。ヴェレスは左肩を手で押さえて蹲っている。
 訝しげに眉を顰めていた紗霧は、だが直ぐにヴェレスの身に起こった出来事に気付いて驚きのあまり目を瞠った。
 見るとヴェレスの左肩は、深紅のドレスを血というさらに濃い赤で徐々に染められていく。
 血の溢れ出る先には機能を重視した飾り気のない短剣が突き刺さっていた。状況から察するに、どうやらセオドアがこの短剣を放ってくれたらしい。お蔭で紗霧は一命を取り留めたのだ。

「シュリア!!」

「シュリア嬢!!」

 セオドアの声でウィルフレッドとアークライトが漸くこの事態に気付いた。
 二人は対峙していた相手を一気に薙ぎ倒すと慌てて紗霧達の元へと駆けつける。
 ウィルフレッドは紗霧の元へ。そしてアークライトはヴェレスの元へと。
 だが両者には決定的な違いがある。ウィルフレッドは紗霧を優しく抱き締めたが、アークライトは怪我を負って動けずにいるヴェレスに剣を突きつけた。

「怪我はないか!?」

 ウィルフレッドは抱き締めていた紗霧を一旦放すと紗霧が怪我を負っていないかどうか探り、そしてそこで手首の跡が赤く生々しく残る紗霧の首筋を目にする。

「――っ!!」
 
 その瞬間、ウィルフレッドの理性は危うく暴走しかけた。
 だが不意に腕の中にいた紗霧が持たれかかるようにその身をウィルフレッドに預けたことで、ウィルフレッドの全意識は紗霧にのみ向けられる。
 紗霧は意図して身体を預けたのではなかったが、結果的にヴェレスにとって良い結果をもたらしたといっても過言ではない。
 腕の中で安堵の表情を浮かべる紗霧をウィルフレッドは再び優しく抱き締めた。

(なんだろう・・・。やっぱりウィルの腕の中って安心できる)

 暫しウィルフレッドの胸でその温もりを享受していた紗霧だが、ウィルフレッドから身体を離すとニコッと安心させるかのようにウィルフレッドに微笑んだ。
 紗霧は状況が許せばもう少しウィルフレッドを感じていたかったのだが、やはり怪我を負ったヴェレスが気に掛かる。

「俺は大丈夫。でもヴェレスが・・・あ!?」

 ヴェレスの方へと視線を投げた紗霧は、そこでアークライトがヴェレスに対して鋭く尖った剣先を突きつけているのを目の当たりにした。

「王子!!」

 紗霧は慌ててウィルフレッドの手を払い除ける。突然払い除けられたことで呆然とするウィルフレッドを尻目に、紗霧は蹲って動かないヴェレスの上からまるで庇うように覆い被さった。

「だだだ、駄目だ!!」

 紗霧の行動にウィルフレッドもアークライトも愕然とする。
 すぐに我に返ったアークライトは僅かだが紗霧を傷付けまいとして剣を引く。だが剣先はヴェレスに向けたままだ。

「う〜ん・・・困ったね。シュリア嬢、怪我すると危ないからちょっと離れていようか」

「お、俺がヴェレスから離れても何もしないと約束してくれますか?」

 紗霧の言葉にアークライトは瞠目する。
 だがすぐに愉快そうに目を細めると、クスリと笑みを漏らした。

「ウィルから聞いてはいたけど、これは…」

 クククと更に笑みを深めるアークライトからは、変わらず殺気が発せられたままだ。
 何が可笑しいんだ!という言葉を紗霧はグッと飲み込む。本来ならば構わず叫んだであろうが、そうすることでアークライトの怒りを買い、ヴェレスにとって不利な状況をつくりたくなかった。
 アークライトはひとしきり笑って満足したのか、目の端に浮かんだ涙を拭う。

「でもねシュリア嬢。ヴェレス嬢の行動はもう『少々やり過ぎた』という程度を超えたんだよ?誰もヴェレス嬢を庇う者はいない。ほらウィルだって」

 紗霧は促されるようにアークライトの視線を辿ると、その先にあったウィルフレッドの瞳とぶつかった。だがアークライトの言葉どおり、ウィルフレッドの瞳にはアークライトと同意見であるという色が見て取れる。

「ね?」

「そ、んな!?ウィル!!」

「・・・」

 ウィルフレッドとアークライトの顔を紗霧は交互に見やった。だがウィルフレッドは無言のままで、アークライトは笑みでもって紗霧の縋る思いを断絶する。
 紗霧は悔しさに唇を噛締めた。

(何で!!)

 己の腕の中で小さく丸まってガタガタと震えるヴェレスを紗霧はギュッと抱き締める。
 紗霧には目の前で起こっていることが現実として理解出来なかった。否、理解したくはなかった。
 命という尊いものをこんなに簡単に奪ってよいのだろうか。
 これが『異なる世界』というものだろうか。

(・・・世界が違う?――だから何だ!こんなに震えているヴェレスを突き放す事なんて出来るもんか!!)

 紗霧はある決意を込めてアークライトをキッと睨み上げた。









                                            update:2007/4/29






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