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 紗霧に向かって迫り来る剣。
 咄嗟に身を躱し逃れるには、既にこの至近距離では不可能であった。


(ウィルっ!!)


 紗霧はギュッと眼を閉じる。
 死の間際になっても思うのはただ一つ。
 ウィルフレッドに全てを打ち明けられなかったことを紗霧は悔いた。ウィルフレッドならば、きっと紗霧が本物のシュリアではないと、欺いていたと知ってもこれまでの関係が崩れることはなかっただろう。それを誰にも告げることも。
 そう言い切れるだけの絆がウィルフレッドとの間にあることを紗霧は信じている。
 だが今となってはもう遅い。今度こそ死を覚悟して紗霧は身構えた。


「シュリア!!!!!!!!!」

「え・・・?」


 物凄い破壊音と名を呼ぶ声が部屋中に響き渡る。そして次の瞬間、カランという金属音と共に紗霧の頭上からは悲鳴が上がった。紗霧は反射的に悲鳴の上がった方へと顔を上げ、その眼を驚きに見開く。
 見ると先ほど紗霧に向かって剣を振り下ろしたはずの男が床に蹲り、手の甲を押え苦しげに呻いている。押えた手の甲には小剣が突き刺さり、突き出た刃の部分を伝って床に赤い血が滴り落ちていた。


「何、で?」


 何が起こったのか解らない。しかし己の命が救われたことだけは紗霧は理解することが出来た。
 だが何故?紗霧は呆然と男が蹲る姿を見る。


「シュリア!!」


 そこへもう一度名が呼ばれる。その声にビクッと紗霧の身体が反応した。


「・・・う、そ」


 先程の声は空耳ではなかったのだ。切羽詰ったような声音はこれまで聞いたことのないものだが、紗霧が決して違えるはずもない。


「っウィルーーーー!!!!!!!!!!」


 咽が裂けんばかりに紗霧はウィルフレッドの名を呼んだ。
 声が上がった方へと顔を向けたが、ブワッと瞳から溢れた涙の所為でウィルフレッドの姿をはっきりと確認できない。
 目蓋を何度も瞬いて涙を払い、紗霧は必死でウィルフレッドの姿を探した。


「ウィル・・・」


 紗霧の表情がフッと安堵したように和らぐ。部屋の扉を蹴破って立つウィルフレッドの姿を見つけ、紗霧は全身の力が抜けたのを感じた。
 だが再会を喜ぶ紗霧とは裏腹に、ウィルフレッドの表情は堅く険しい。
 ウィルフレッドは素早く室内へ入り込むと、突然の乱入者に戸惑うヴェレス達を横目に紗霧の元へと駆け寄った。


「―――遅くなって済まない」

「っ」


 紗霧の前でウィルフレッドは片膝を折ると紗霧を抱き起こし、紗霧を戒めていた縄を切って解放する。手首は縄で擦れ血が滲み出ていたが、今はその痛みすら感じない。
 涙で再びウィルフレッドの姿が霞んだ。
 一筋、一筋と涙で濡れる紗霧の頬をウィルフレッドは優しく拭う。何度も紗霧の頬を撫で、そしてウィルフレッドはギュッと力強く紗霧を抱き締めた。


「暖かい・・・。本物のウィル、だ」


 紗霧は瞳を閉じてウィルフレッドの体温を全身で感じ取る。するとこれまで押えていた感情が解き放たれかのように一気に涙が止まることなく流れ出て、紗霧を抱き締めるウィルフレッドの肩を濡らした。


「う、・・・くっ」


 嗚咽の所為でウィルフレッドに伝えたい感謝の言葉は声にならない。
 それでも何とかこの思いがウィルフレッドに届くようにと、紗霧はウィルフレッドの背に腕を回し力を込めて抱き締めた。


「もう大丈夫だ」


 泣きじゃくる紗霧の耳元へウィルフレッドが優しく囁く。紗霧を抱き締めるウィルフレッドの腕に更に力が加わった。


「・・・・・・これは何の真似だ」


 紗霧を抱き締めたままウィルフレッドは身動き一つせずヴェレスに問う。ヴェレス達に背を向けた状態のウィルフレッドは、一見して無防備にも見えるが、静かに発せられたその声にヴェレスはまるで剣を眼前に突きつけられたように身体の底から言い知れぬ恐怖が突き上げた。


「あ・・・あ・・・っ」

「何の真似だと聞いている。答えろ」

「ひっ!!」


 ヴェレスは全身がぶるぶると震えて止まらず、無意識に後方へと一歩下がった。


「この様な真似をして相応の覚悟は出来ているのだろうな」


 ウィルフレッドからゆらゆらと憤怒の青白い炎が燃え立っているようだ。
 紗霧から身体を離したウィルフレッドは緩慢に立ち上がるとヴェレスと向き合った。その手には剣が握り締められている。
 静かな声音とは裏腹に、ウィルフレッドの瞳は相手を視線だけで射殺さんばかりに鋭い。
 しかし表情は一切なく、まるで上質な作り物の仮面のようだ。だがそれこそウィルフレッドの怒りが限界まで達したことを意味していた。


「ウィル・・・」


 ウィルフレッドの絶対零度なまでの怒りに紗霧の涙がピタリと止まる。背筋にゾクッとした戦慄が走り抜け、思わず唾を嚥下した。
 紗霧はウィルフレッドのその姿をかつて見たことがある。そう、それは紗霧が城下町で乱闘騒ぎを起こした時のことだ。だがその時と今とではウィルフレッドの怒りは比ではない。何故ならこの状況に、紗霧でさえ恐怖のあまり身体が震えて止まらないのだ。


「・・・貴様だけは決して許さん。死をもって贖え」


 ウィルフレッドは剣をヴェレスに向かって掲げた。


「まっ!?わたくしに剣を向けるなど!だ、誰かこの者を切り捨てなさい!!」


 先程まで震えていたヴェレスだが、貴族としての自分に剣を突きつけられたことで高いプライドが刺激されたらしい。
 扇の先端を今度はウィルフレッドに向けて命を下す。するとヴェレスの背後に控えていた男達が一斉に剣を抜き放ち、雄叫びを上げながらウィルフレッドに向かって突進した。
 しかしウィルフレッドは一歩も動かない。
 このままではヴェレスの手の者によってウィルフレッドは切り捨てられることとなるだろう。
 だが紗霧だけはウィルフレッドの戦い方を熟知している。そしてウィルフレッドの底知れぬ実力をも。
 恐らくこのままでは、ウィルフレッドによって切り捨てられた死体が辺りに転がることとなるだろう。


(それだけは駄目だ!!)


 紗霧は震える身体に鞭を打ち、剣を構えたウィルフレッドに向かって叫んだ。


「ウィル、殺しちゃ駄目!!!」

「何だと!?」


 ウィルフレッドは確実に相手を仕留めようと急所を捉え構えた剣を寸前で止める。


「何を言っているんだシュリア!?」


 剣の矛先を躊躇したウィルフレッドに敵は容赦なく襲い掛かる。だがウィルフレッドは難なくその剣を受け止め払い、戦意を喪失させるかのように太股を切り裂いた。
 男の絶叫が辺りに響き渡る。
 耳を塞ぎたくなるような悲痛な叫びを聞きながら、それでも紗霧は叫んだ。


「駄目ったら駄目!!前にも言ったけど、そんなに簡単に人の命を奪っちゃ絶対に駄目だ!!」

「っ!この状況下でその様な事を言っている場合ではなかろう!」

「ウィルなら大丈夫!!」


 握り拳を作って力説する紗霧にウィルフレッドは思わず顔を顰めた。『何を根拠に』と思ったが、紗霧に腕を認められて悪い気はしない。だが手加減が出来るほどの相手でも人数でもなかった。
 ウィルフレッドはどうしたものかと素早く策を巡らせる。
 そこへ部屋の外から人の気配と共に足音が聞こえてきた。









                                            update:2006/11/05






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