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(・・・そう、か。俺が共に在りたいと願うのは一人。―――ウィルだ)


 家族でもない。
 グレイス夫妻でもない。
 紗霧の脳裏に鮮やかに浮かび上がったのはウィルフレッドの姿だった。
 共に在りたいと願った者がウィルフレッドであったことに紗霧は驚いたが、しかしどこか素直に納得してしまう自分がいる。
 たった半月前に出会った男――ウィルフレッド。
 だが時間の長短など二人の間には関係なかった。
 出会ってからというもの、紗霧とウィルフレッドは驚くほど急速に打ち解けた。
 互いに心を許し合い、何時しか自分にないものを持つ相手に惹かれ、そして尊敬の念を抱く。
 今や紗霧にとってウィルフレッドは無二の親友だと断言できるほどに大きな存在となっていた。
 しかしウィルフレッドがここまで紗霧の心を占める存在になるなどとは、二人の出会いを思えば考えられない事である。

『勇ましいお嬢様の凱旋だな』

 そう言って馬上の自分を見上げるウィルフレッドの姿を紗霧はすぐに思い浮かべる事が出来る。口元には笑みを湛え、向けた視線は楽しげにウィルフレッドは紗霧を見た。
 小馬鹿にしたようなウィルフレッドの態度に常の紗霧なら怒りを表すとこだが、あまりにも整ったウィルフレッドの面差しに紗霧はつい不躾なまで注視してしまう。
 紗霧の漆黒の髪色とは対照的な金髪に、エメラルドのように美しく澄んだ緑の瞳。そして形の良い眉に高い鼻梁、薄い唇。
 同性にも拘わらず紗霧はウィルフレッドが持つ美貌に視線が惹きつけられた。
 だがウィルフレッドの口から紗霧を馬鹿にする言葉が発せられた瞬間に、紗霧はウィルフレッドを『敵』とみなし、しかもその後、セオドアの関係者だと知ってからは『要注意人物』としてウィルフレッドを警戒した。
 そんな過去の自分を思い出し、紗霧はフッと顔を綻ばせる。


(そんな事もあったよな)


 紗霧の口元から苦笑が零れた。この出来事は、既に紗霧とウィルフレッドの間で過去の笑い話の一つとなっている。
 出会いは決して友好と言い難い二人だが、紗霧とウィルフレッドにとって今では共に在ることこそが自然であるのだ。
 正体を偽っているだけでなく、慣れない城暮らしもあって紗霧は日々気を張って過ごしていたが、ウィルフレッドの傍に居る時だけは肩の力や緊張が解け、不思議と楽に呼吸が出来た。
 元の世界では兄妹の長男である紗霧にとって妹とは守らなければならない存在であり、こちらの世界の恩人であるグレイス夫妻は紗霧にとって自分に出来る事ならばどんな些細な事でも力になりたいと思う存在であった。
 だがウィルフレッドは違う。
 守りたいと思うのではない。まして守られたいと思うのでもない。
 ウィルフレッドは紗霧が対等で在りたい存在であり、背中を預ける事が出来る唯一の存在である。
 この先、一生得られるかどうかというウィルフレッドとの理想的な関係に、紗霧が共に在りたいと願うのも無理は無かった。
 思いの丈は驚くほどに強い。
 それはある種、恋愛と同等の熱を有しているといっても過言ではなかった。
 しかし紗霧は常にウィルフレッドを『欺いている』という罪悪感に苛まれ、心を締め付けられている。
 自分に対して信頼を寄せるウィルフレッドに心が痛まぬ筈がない。それでも『シュリア』という仮面を被り続けるのは、一重にグレイス達を想っての事である。
 紗霧は願う。
 ウィルフレッドに真実を打ち明ける事は出来ない。それでも正体を偽る己の存在をウィルフレッドに受け入れてほしい、と。
 それがどれほどまでに己の身勝手にしか過ぎない願望かを紗霧は重々承知している。けれど紗霧にとって、無二の親友とするウィルフレッドの存在を失った時の苦痛を想像するだけでもとても耐えられなかった。
 ふいに紗霧の顔が曇る。
 その脳裏には、ふと『愛している』と戸惑いながらも真剣な眼差しで告げたウィルフレッドの顔が浮かび上がった。
 『シュリア』と偽る紗霧に告げられたウィルフレッドの真摯なまでのひたむきな心。
 相手を慕う気持ちは互いに深い。だがそれは残念ながら同種の想いではなかった。


(ウィル・・・。どうして俺達はこのままの関係でいられなかったんだ?・・・俺はどうすれば――)

「もういいわ!!」

「っ!?」


 ふいに紗霧の思考が甲高い声によって遮られた。
 ビクッと弾かれたように紗霧は声の上がった方へ視線を向けると、そこにはキリリと目の端を吊り上げたヴェレスが小柄な身体をふるふると小刻みに震わせる姿が目に映る。
 先程の空気を引き裂くような叫び声は、どうやらヴェレスの口から発せられたようだ。


「あっ・・・」


 そのヴェレスの背後には数人の男達が佇み、紗霧を観察するかのように冷たい視線を向けている。彼等を見た次の瞬間、紗霧はしまったというような表情を浮かべた。


(ぐあぁぁぁああぁあ〜俺の馬鹿ぁ〜〜〜!!!!!!!!!)


 己がどういった状況に置かれているかを思い出し、そして一時でもこの状況を忘れてしまったという失態を犯してしまった事実に紗霧は自己嫌悪に陥った。
 相手の隙をついて逃げ道を模索していた紗霧にとって、それはあまりにも大きな過失であるといえる。
 紗霧はガックリと肩を落として項垂れた。


「貴方が何を考えているか解りませんけど、その百面相も見飽きたわ」

「へ?」

「これ以上貴方に用はなくてよ。―――誰かこの者を私の前から消し去って!!」


 一人空気を重くしていた紗霧が慌てて顔を上げると同時に、ヴェレスは手に持つ扇の先端を紗霧に突きつけて命を下した。
 するとヴェレスの背後で言葉無く控えていた男の一人がスッと前に進み出ると腰に帯びていた剣を鞘から抜き放つ。鈍く刃を煌めかせながら近づく男の姿に、紗霧の顔からザァと一気に血の気が引いた。


「なっ!!ちょ、本気か!!??」


 ここにきて漸く紗霧は、ヴェレスが本気で自分を抹殺するつもりだという事を理解した。平和な環境で育った紗霧には、まさかそんな些細な事でヴェレスが人を殺めるなどという馬鹿な考えを本気でするわけが無いと、心のどこかで信じていたのかもしれない。
 だが現実には、剣をその手に強く握り締めた男が紗霧の眼前まで迫る。紗霧は必死になって床を蹴り這うようにして後退りしたが、男の歩む速度の方が断然速い。
 あっと言う間に紗霧は男の剣が届く距離へと捕捉され、そして男は剣を頭上高く掲げると一気に紗霧に向かって振り下ろした。だが――。


「〜〜〜そう大人しく殺られるかっての!!」


 紗霧は素早く立ち上がると刺客の鳩尾へと渾身の回し蹴りを見舞った。あまりに突然の紗霧の反撃に、男は避ける事が出来ずまともに蹴りを食らう。


「ぐはっ!?」

「だ、っ〜〜〜〜!!!!!くっ!!」


 絶体絶命に陥っていた紗霧だが、何とか命の危機を回避出来た。だが喜ぶ間もなく紗霧は男と同様に床に倒れ込むと顔を苦悶に歪めて低く呻く。
 あまりにも見事に決まった紗霧の回し蹴り。だが男に攻撃を仕掛けた足は全治7日と診断された利き足である。
 男を撃退したまでは良かったが、同時に紗霧にも脳天に突き上げるほどの激痛を与えた。
 紗霧は強く唇を噛締め痛みに耐える。しかしあまりの激痛に目の端からは涙がポロポロと零れ落ちた。


「何をしているの!?早く殺して!!」


 痛みに唸る紗霧の頭上で再び容赦なくヴェレスの命が飛ぶ。するとヴェレスの背後からスッと新たな男が進み出た。
 先程倒れた仲間の二の舞にはならぬようにと、第二の男は慎重に紗霧に近づいて行く。
 だが紗霧は身体を丸めた状態のまま微動だにせず、ただただ痛みの所為で乱れた呼吸に激しく胸を上下させるだけだった。


(・・・ヤバイ。意識が朦朧としてきた)


 目蓋が次第に閉じていく。それでも紗霧は意識を手放してなるものかと必死で抵抗した。だが懸命な努力とは裏腹に視界は徐々に狭まり、周囲の音までもがどんどん遠ざかっていく。


(××っ!こんなところでっ!!!)


 珠の汗が紗霧の額に浮き出た。身体がまるで自分のものでない感覚も襲い、紗霧は慌てて強く頭を振る。すると何とか辛うじて意識を保つ事が出来たが、未だ完全とは言い難い。しかし気を失うという最悪な事態だけはどうにか回避出来た。
 徐々に定まってきた意識と、聞こえ始めた周囲の音。
 紗霧は辺りの様子を窺おうと重くなった目蓋を抉じ開ける。
 だが次の瞬間紗霧の眼に映ったのは、今まさに自分に向かって振り下ろされたばかりの男の剣であった。









                                            update:2006/10/29






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