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 胸が激しく上下するほど乱れる呼吸。
 前髪が額に張り付くほど流れる汗。
 城の北西に建つ『ディリル屋敷』に向かって、ウィルフレッドはそれこそ全速力で駆ける。
 今や余裕の無いウィルフレッドだが、かつてこれほどまでに冷静さを欠いた事はなかった。
 そう、一度たりともである。
 ウィルフレッドは幼き頃から第一王位継承者として常に『冷静であれ』、そう在る事を周囲に強く求められ、実際ウィルフレッドも当然だとばかりに受け入れ成長した。どの様な不測の事態が起きようとも、これまでウィルフレッドは動じることなく見事な采配を振るって事柄に対処してきたのだ。
 だが最早その沈着冷静なウィルフレッドはどこにも存在しない。
 少しでも理性が残っているウィルフレッドならば部屋に残ってアークライトと合流し、その場の指揮を執らなければならないのは理解している筈である。
 しかしウィルフレッドがそう考えるよりも先に身体は勝手に動き、躊躇なく窓枠に手を掛け、ウィルフレッドが気付いた時には既に駆け出していた。


 窓から外へと飛び出し見事な着地をしてみせたウィルフレッドが迷う事無く向かったのはヴェレスに宛がった屋敷。
 何故ならウィルフレッドの記憶に残る紗霧の部屋に残された太刀筋は、レスター家に縁ある者のみが継承する事の出来る剣戟の型であったのだ。となれば、レスター家一族の者が紗霧誘拐に深く関与している事実は明白である。


 紗霧が居を構える屋敷から僅か10分程の距離にある場所に、ヴェレスが居を構える屋敷がある。ウィルフレッドはその半分にも満たない僅かな時間で到着してみせた。
 だが深夜の上に、ヴェレスに対して先触れの無いウィルフレッドの突然の訪問。
 そんなウィルフレッドに驚き硬直していた衛兵だが、ハッと我に返って既に屋敷の中へと踏み込んだウィルフレッドを慌てて制止するも、ウィルフレッドはヴェレスの部屋の扉を乱暴に開け放った。
 突然物凄い勢いで開いた扉に、飛び上がらんばかりに驚いたのは中で寛いでいたヴェレスの侍女達だ。
 侍女達にとって、ウィルフレッドは見も知らぬ突然の侵入者。それも眦をきつく吊り上げてその身から怒りを迸らせている。
 そんなウィルフレッドの姿に、まだ年の頃が若い侍女達は絶叫した。悲鳴を上げ、怯える侍女達にウィルフレッドはヴェレスの居所を尋ねるが、侍女達は言葉無く首を左右に振るだけ。
 『埒が明かぬ』、とウィルフレッドは全ての部屋を開け放ちヴェレスを探すが、その姿は部屋のどこにも無かった。再び侍女達に詰め寄りヴェレスの居場所を問うが、やはり震えて首を横に振るだけ。
 ならば用は無いと、ウィルフレッドは再び外へと飛び出した。


「シュリアっ」


 紗霧の安否が判らない状況に焦りばかりが先立つ。
 ギリギリと歯を食いしばり、苛立ちを押えるため掌に爪が食い込むほど拳を強く握り締めた。
 広大な城内には至る所に身を隠す場所が存在する。それを一つ一つ虱潰(しらみつぶ)しに探索したのでは手遅れとなる可能性が高い。
 今更ながらウィルフレッドは、ヴェレスの行動に対して早急に対処しなかった事を悔やみ己を責めた。


(焦るな、落ち着いて考えろ!・・・レスター家に縁のある屋敷は―――)


 レスター家は歴代王の正妃や側室となる者を数多く輩出してきた。その為か、城内にはその者達に贈られた屋敷が多数ある。
 ウィルフレッドはその何れかにヴェレスが潜んでいると確信していた。


(南のメティナ屋敷・・・。いや、違う。あの屋敷は人の出入りがなくなって久しい上に、屋敷の老朽化がかなり進み、今では人が踏み入る事の出来ない程危険だ。同様にフィアス屋敷も半壊している。手入れなくとも即座に使用出来る屋敷は・・・)


 物凄い速さで屋敷の候補を絞り上げて行く。
 そしてウィルフレッドはある一つの屋敷に思い当った。


(まさか、ディリル屋敷か!?)


 躊躇する時間は無い。
 ウィルフレッドは一縷の望みをかけて、北西に建つ先々代国王側室ディリルに与えられた屋敷へと駆け出した。




***




「ウィル!!!!」


 親衛隊を引き連れて紗霧の部屋へと飛び込んだアークライトだが、室内には既にウィルフレッドの姿は無い。
 辺りを見回すも、部屋には主の安否を気遣うリルが佇んでいるだけである。


「ウィルは何処へ!?」

「ま、窓から外へお出になりました」


 その言葉に、アークライトの口元がヒクリと引き攣る。


「あっっの馬鹿っ!」


 次代国王となるウィルフレッドを罵る事が出来るのはアークライトただ一人だけだろう。


「あ〜〜〜〜〜〜〜〜もうっ!!」


 アークライトは髪の毛を掻き毟る。
 紗霧が絡むと普段は冷静なウィルフレッドが豹変してしまう事を昼間、アークライトは目の当りにしたばかりだ。この様な非常事態ならば尚更アークライトの到着をウィルフレッドが大人しく待つはずはない。
 アークライトは俯くと口元を手で覆い低く唸る。
 暫し考え込む様子を見せるが、直ぐに顔を上げると後方に控えるセオドア以下親衛隊を振り返って声を張り上げた。


「第三小隊はヴェレス嬢の屋敷へ!蛻(もぬけ)の殻だと思うが、一人でも残っていたら逃さず拘束しろ!セオドアと第一・第二小隊は俺と共にディリル屋敷へと向かう!!」


 ウィルフレッド同様に、アークライトもヴェレスの行方はディリル屋敷だと推測した。


「急ぐぞ!!」

「あ、あの!!」


 先頭に立ち、親衛隊を率いて部屋を飛び出しかけたアークライトにリルの声が掛かる。


「ん?何」


 フェミニストなアークライトはこの様な切羽詰った状況でも笑顔でリルを振り返る。
 すると血が滲むほど噛締めていた唇を開いたリルは、物凄い勢いで頭を下げた。


「サ――、いえ、シュリア様をどうかお救いください!!!!」


 床にポタポタと涙の雫が落ちる。
 アークライトはそんなリルを真摯な眼差しで見つめた。


「大丈夫、俺達に任せて。シュリア嬢は俺達が絶対に助け出すから」


 アークライトは焦る気持ちを抑え、リルを安心させるかのように微笑んだ。


「宜しくお願い致します!!」

「うん。―――セオドア、行くぞ!!」


 再び頭を下げたリルにアークライトは力強く頷くと真剣な表情となり、今度こそセオドアを従え屋敷を飛び出した。









                                            update:2006/8/27






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