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 今宵の月は満月だ。
 ウィルフレッドが歩む通路には一面天井まで届くような窓ガラスが填められ、月はその神秘なまでの光を惜しげもなく窓から注ぎ込む。時折風に乗って薔薇の甘い香がウィルフレッドの鼻腔を擽るが、ウィルフレッドのその表情は変わらず厳しいままだ。
 通路の所々で警備に当たる衛兵はウィルフレッドの存在に気が付くと恭しく頭を下げる。そんな衛兵の側を無言で通り過ぎるウィルフレッドだが、何故か胸騒ぎを覚えていた。
 建物自体の気配も何処かしら騒めいている。
 言い知れぬ不安を感じて、ウィルフレッドは無意識に足早となっていた。その時だ。


『きゃぁあああああ』


 突然女性の悲鳴が上がり、次いでガシャンと何かが激しく割れる音が静かな通路に響き渡った。


「!?」


 ウィルフレッドは迷わず紗霧の部屋へと駆け出す。
 正妃候補者が城へ滞在する1ヵ月もの間、候補者同士が衝突しないようにとの配慮から候補者にはそれぞれ別の邸宅を宛がっていた。
 つまりこの建物は『グレイス公爵の息女』の為に用意させたものであり、更にいうならば建物の奥まったこの辺りの部屋は限られた使用人以外の者は滅多に立ち入る事が許されていない貴人用に造られた部屋である。そうなると悲鳴の上がった部屋は必然的に紗霧の部屋という事になるのだ。
 突き当り正面の扉に、ウィルフレッドは物凄い勢いで体当たりすると部屋の中へと飛び込んだ。


「どうした!何が―――!!??」


 瞬間、ウィルフレッドは息を飲み込む。
 眼前に広がる部屋のあまりにも酷い惨状を目の辺りにし、ウィルフレッドは暫し茫然と立ち尽くした。


「これは・・・」


 まず目に飛び込んだのは原型を留めないまでに切り裂かれたソファ。
 次いで真っ二つに引き裂かれたクッション。
 更には逆さになったテーブル等、そこで何らかの激しい争いが起きたであろう形跡がまざまざと残されていた。
 ウィルフレッドは更に部屋の奥へとフラリと踏み出したその足で、パキリと何かを踏み割ってしまう。見ると、粉々になったティーカップがそこら辺りに散らばっている。先程ウィルフレッドの耳に届いた音は、床に砕け散ったこのティーカップであった。
 一人真っ青な顔をして部屋の入り口に立ち尽くしていたリルは、その踏み割れた陶器の音で我に返り、後方に立つウィルフレッドの方へと緩慢な動作で振り返る。
 そこでウィルフレッドの姿を目に留めたリルは、弾かれるようにしてウィルフレッドの腕に縋り付いた。


「―――っ、サギリ様が!!サギリ様がっ――!!」

「サギリ?」


 嗚咽が洩れ、後はどうやら言葉にならないようだ。
 ウィルフレッドは縋り付かれたという驚きよりも、リルが口にした『サギリ』という名にピクリと方眉が反応する。
 どこかで耳にした事のある名だ。
 埋もれた記憶を探るウィルフレッドは『確か』、と記憶の底からゆっくりと浮かび上がる名を懸命に手繰り寄せた。


(そうだ。思い出した・・・)


 そう。確かにサギリという名を名乗っていた者がいた、と。


(―――シュリアだ)


 出会いは偶然。
 だが必然だったとでもいうべき最初の出会い。
 その時に紗霧が自ら名乗ってしまった真実の名、『紗霧』。


(それが真の名、か・・・?)


 この世界では馴染みのない音だが、その名こそが何故か紗霧に相応しいと感じてしまう。
 しかし今、この様な状況で納得している場合ではなかった。


「シュリア!!居るのならば返事をしろ!!」


 ウィルフレッドは腕にしがみ付くリルの手を解き、焦る気持ちを抑えないまま部屋の中を荒々しく歩き回った。
 寝室、化粧室に衣装部屋と、次々と紗霧の姿を求めて部屋を探し回る。


「シュリア!!」


 だが、返事が返ってくるどころか一向に紗霧の気配を感じる事は出来ない。
 ウィルフレッドは再び扉の前まで戻ると、そこで崩れるように膝を着いたまま咽び泣くリルの両肩を鷲掴みにし語気鋭く迫った。


「一体何があった!?これはどういう事だ!?」


 ウィルフレッドはリルを前後に揺さ振った。
 揺さ振られる中、リルは両手で覆っていた顔を上げると戦慄声ながらも必死に言葉を紡ぐ。


「な、何が起こったのかはわ、判りません。わたくしはただ、さ、サギリ様が何かと思い悩んでおられたご様子でしたので、サギリ様の気分が、す、少しでも軽くなるようにと、温かい、お飲み物をご、ご用意しようと―――」


 リルは震えの止まらない両手を胸元で組んだ。混乱している所為か、リルは紗霧の真実の名を口にしている事には気付かない。
 ウィルフレッドも今この場では敢えて追求する事をしなかった。


「へ、部屋から一度退出、したのです。その際、さ、サギリ様、は『急がず、ゆっくり』と仰って、わたくし不思議に、思っておりましたが、で、でも、まさかこの様な事になるなんてっ」


 リルは両手で顔を覆うと再び泣き崩れた。
 だがウィルフレッドはリルのその言葉に眉を顰める。


(『急がず、ゆっくり』、だと?)


 何故その様な事を言う必要があるのか。
 ウィルフレッドはすぐさま一つの可能性を導き出す。


(もしや・・・何者かの存在に気付いていたのか!?)


 紗霧程の手練だ。何者かの気配に感づいていたとしても不思議ではない。
 危険を察知して自分以外の者を遠ざけたと考える方が紗霧らしいのだ。
 ウィルフレッドはギュっと拳を握り締めると立ち上がり、何らかの手がかりが残されてないかと争いの形跡を検証する。


(血の流れた痕跡は―――無い。・・・無傷とはいかないだろうがシュリアは未だ生きている)


 この部屋の惨状で命があるという可能性にウィルフレッドは僅かながら安堵する。だが、とウィルフレッドは唸った。


(何故シュリアを連れ去った?その目的は?)


 厳重な警備が敷かれる中で誰にも気付かれず部屋に侵入する事を為し得たばかりか、更なる危険を招くと知った上でわざわざ紗霧を連れ去る目的が判らない。
 ウィルフレッドはソファに近づくと、床に膝を着いて切り裂かれたソファを指でなぞる。
 一見するとソファは無造作に切り裂かれている様に思えるが、良く見るとその傷には一定の太刀筋が残されていた。


(・・・・・・前に一度目にした事がある。・・・―――まさか、この太刀筋は!)


 ウィルフレッドは立ち上がった。
 その時、コンっと爪先で何かを弾く。
 不思議に思い床に目を向けると、ウィルフレッドの視線の先には白く丸い粒が散らばっていた。ウィルフレッドはその幾つかを拾い上げると掌で転がす。
 それは真珠の粒。そしてデルフィング国の紋章である薔薇を象った乳白石の石であった。


(っ!?これは!!)


 ウィルフレッドには見覚えがあった。
 そう、何故ならウィルフレッド自身が選び紗霧に贈ったブレスレットである。
 ウィルフレッドは視界が一瞬で赤に染まるほど、これまでに感じたことのない憤りを覚えた。


「侍女!!」

「は、はい」

「急ぎ衛兵にこの惨状と私がアークを呼んでいる事を伝えるのだ!!」


 未だリルの瞳からは涙がとめどめなく流れ落ちてはいたが、それでも力強く頷くと足を縺れさせながらも必死になって部屋の外へと駆け出した。
 しかしリルはその足を途中ピタリと止めると、困惑げにウィルフレッドを振り返る。


「あ、あなた様は?」


 当然ながらリルはウィルフレッドという人物を知らない。今朝、紗霧の見舞にと部屋を訪れた折に紗霧から紹介を受けてはいたが、それは『修練場でお世話になっている人で、ウィルっていうの』と、何とも簡潔なものであった。


「―――私は」


 ウィルフレッドはその名を躊躇する事なく力強く告げる。


「ウィルフレッド・コーウェン・デルフィングだ」


 リルは驚愕のあまり目を見開くと言葉を失った。
 『ウィルフレッド・コーウェン・デルフィング』という名をこの国の民ならば知らぬはずはない。
 幼子でもその名を問えば声を揃えて答えるだろう。
 デルフィング国の次代国王となられる御方だと。
 リルは衝撃的なその名に涙がピタリと止まった。だがウィルフレッドはリルの反応を気にする事なく背を向け、開け放たれたままの窓からひらりと身を躍り出すとそのまま暗闇の中へと消えて行く。
 リルはウィルフレッドの後ろ姿を呆然と見送っていたが、ハッと我を取り戻すとウィルフレッドに続き慌てて部屋から駆け出した。









                                            update:2006/8/20






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