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(何で俺はあそこで・・・)


 ソファに深く凭れ掛った紗霧は、信じられないとばかりに己が両手を凝視する。その意識は昼間起きた出来事へと飛んだ。
 馬の背から投げ出された時はもう駄目かと紗霧は覚悟した。
 あの高さから地面に叩きつけられたらば、いくら受身を取ったからといっても軽い怪我で済むはずはない。
 打ち所が悪ければ、それは即ち『死』。だが紗霧の身体は地面に叩きつけられることなく、優しく受け止められた。
 そう。
 ウィルフレッドの胸の中に。
 だがいくら紗霧が小柄だとはいえ、ウィルフレッドの受けた衝撃は少なくないだろう。しかしウィルフレッドはその衝撃の中、紗霧を抱き締めた腕を決して解く事はなかった。
 まるで少しの衝撃をも紗霧が受けないようにと。
 そして少しの怪我をも紗霧が負わないようにと。
 紗霧が受けるはずだった全てのダメージを一身に受け止めて尚、紗霧の身を案じるウィルフレッドに紗霧の胸は熱く締め付けられ、何故か涙が溢れかけた。
 そして両腕が無意識に動いたというのだろうか。
 紗霧は己を強く抱き締めてきたウィルフレッドの背に思わず両腕を回してしまったのだ。


(ウィル・・・)


 紗霧は左腕に填めたブレスレットを見つめる。
 それは城下町へ出かけた際にウィルフレッドから贈られた真珠のブレスレットだ。
 真珠の粒を紗霧は優しく何度も撫でる。
 脳裏に浮んだまま消えないでいるウィルフレッドの姿に、紗霧は溜息を吐いた。


「・・・さ・ま」

「何だよこのモヤモヤ。っつか、ムカムカ?・・・う〜〜〜ん」

「サ・・・リ様っ」

「あぁ、もう判んない!!ムカツク!!!!!」

「サギリ様!」

「うわっ!?なななななな、何??リル、急にそんな大声あげてどうしたの!?」


 バサッと何かが床に落ちた。
 慌てて音の方を見ると、どうやら膝の上で開いていた本を驚きのあまり床に落としたようだ。
 心臓が止まるかと思った、と紗霧は心拍数の上がった心臓を右手で押さえながら床に落ちた所為で閉じた本を拾うと、正面で大きな溜息を吐いたリルを見上げる。


「・・・先ほどからずっとお呼びしておりましたが」

「え゛!?そ、そうなんだ。あははは〜〜・・・ごめん!」


 実は紗霧が気付かなかっただけで、数時間前からリルは紗霧の気が抜けたような様子を見ては心配で声を掛けていたのだ。だが紗霧は己の思考に耽っていた所為か、その声は耳に届く事なく素通りしていたのである。
 両手を合わせて申し訳無さそうに謝罪する紗霧に、リルは目を和らげて微笑んだ。


「もうお休みになられる時間ですよ」

「は?―――嘘!?もうそんな時間!!??」

「はい」


 窓に眼を向けると、カーテン隙間から覗く外は既に日が落ちている。次に時計の方へと眼を走らせた紗霧は、確かに深夜近くを差す時計の針を見た。


「・・・部屋に戻ってからの記憶が全く無い」


 紗霧は慌てて最後の記憶を辿った。
 部屋まで送ってもらったセオドアにお礼を言ったのは覚えている。何故ならその後に『恐縮です!』と顔を赤らめたセオドアを可愛いと思ってしまったから。
 だが、やはりどうしてもその後の記憶が定かではない。
 床に落として拾い上げた本と腕に填めたブレスレットを『そういえば何時の間に・・・』と、手にした記憶が全く無い事に驚く。本は兎も角、紗霧は無意識に填めていたブレスレットを茫然と見る。
 ウィルフレッドの事を考えていた所為か、ウィルフレッドと縁のある品を身に付けていたという事実に「うわぁ〜」と紗霧は恥ずかしさのあまり顔を赤らめた。
 そんな紗霧をリルは困惑げに見つめる。
 リルは、セオドアに支えられ部屋に戻ってきた紗霧が、心此処に在らずという状態に気が付いていた。
 ソファに腰掛けたまま遠い目をする紗霧をそっと見守っていたが、時折何かを思い出したかのようにフラフラと覚束無い足取りで部屋の中を歩き、最初は本を次に見覚えの無いブレスレットを手にしてソファの定位置に戻ってきた時にはもう大丈夫かと安心していたのだが。
 でもやはり、深夜近くまで微動だにしなくなった紗霧をリルは流石に心配になってきて、とうとう声を掛けたのだ。


「サギリ様、何か悩み事があるのでしたら、少しでも気分が軽くなる紅茶でもお淹れしましょうか」


 この状態のまま紗霧が寝付く事は出来ないだろうというリルの配慮だった。
 何も問いただす事はせず、ただ紗霧の気が少しでも晴れたらというリルの陰ながらの支えに紗霧の胸が温かくなる。


「ううん、もう遅いから悪いよ。リルは俺の事を気にせず先に寝て。俺はまだ少し考えたい事がある―――って・・・」


 何故か紗霧は途中で言葉を切って軽く俯いた。リルからは見えなかったのだが、紗霧はその表情を険しくする。
 だが直ぐに顔を上げると、何事も無かったかのようにリルに申し訳なさそうに笑いかけた。


「あっ、と・・・・・・、やっぱりお願いしてもいいかな?」

「畏まりました」


 直ぐにお持ち致します、とリルは微笑む。


「本当にごめん。でも急がず、ゆ〜っくりお願いね」

「?」

「よろしく〜」


 首を傾げるリルに向かって紗霧はひらひらと手を振る。
 リルは扉の前で紗霧に一礼すると部屋を後にした。隙間なく扉が閉まるその瞬間まで目を離さなかった紗霧は、静かに扉が閉まったのを確認すると膝の上に乗せていた本を左手で軽く握る。


「さて、と」


 そして窓に顔を向けると凛と声を発した。


「何かご用ですか」


 その声音は高くもなく低くもなく、又、恐れや怒りといった何の感情も込められてはなかった。
 しかし紗霧の問いに対する返答は無い。


「窓の外にお二人ほどいらっしゃいますよね。わたくしに何か?」


 紗霧は『シュリア』としての態度でもって、窓の外に居るであろう者に呼び掛ける。


「・・・何故気が付いた」


 紗霧のその確信した物言いに観念したのか、窓は音も無く静かに開いた。と同時に、全身黒尽の出で立ちをした2人の男性が部屋の中へと飛び込んでくる。
 紗霧は取り乱す事もなく、2人の男を眺めた。
 特に特徴の無い顔だ。それぞれ茶髪と灰褐色髪で、年齢的には30代を少し超えたばかりだろうか。
 そう冷静に観察する紗霧だが、それとは逆に突然の侵入者に対して臆する事無い紗霧の態度に2人は素直に驚きの表情を見せた。
 そんな侵入者に対して紗霧はフッと柔らかく微笑む。


「そのように殺気を発していれば、わたくし如きでも気付くと思いますわ」

「ふっ、面白い。・・・では率直に用件を述べる。シュリア嬢、我々と一緒に来てもらおうか」


 男達が発していた殺気は、本来なら一介の者が気付く事は出来ない僅かなものだった。
 紗霧は卑下した言い方をしたが、その殺気を当然だと言わんばかりに気付いた紗霧に対して、男達は僅かながら警戒を敷く。
 男達の内、茶髪の男が前に進み出ると紗霧に向かって掌を差し出した。
 紗霧はその手を更に深くした笑みで拒否する。


「嫌、とお答えしたら?」

「力ずくでも」


 紗霧に向かって伸ばしていた掌には何時の間にか剣が握られており、その剣先を紗霧に向けて突きつける。
 剣先を目の前に突きつけられた紗霧は表情をスッと無くした。


「・・・・・・そうですか。解りました」


 紗霧は膝の上に置いていた本を小脇に抱えると、優雅な仕種でもってソファから立ち上がる。
 その紗霧の従順な態度に茶髪の男は嫌な笑みを浮かべると剣を下ろし、逆の手を紗霧に向かって再び伸ばした。


「―――って言うわけないだろ!!」

「なっ!?」


 大人しく付き従う素振りを見せていた紗霧だが、小脇に抱えていた本を左手に持ち力の限り男に向かって投げつけた。
 だが利き手ではない所為か、投げつけた本の勢いはあまりない。
 飛んでくる本を男は余裕の態度でもって剣で真っ二つに裂く。引き裂かれた本は1枚1枚バラとなり辺りに散らばった。
 全ての紙が地面に落ちるより先に、紗霧は刺客の隙をついてドアに向かって駆け出す。


(ここは多勢に無勢。怪我した俺では太刀打ち出来ないっ)


 本来ならどんな者にでも背を向けない紗霧だが、利き手・利き足を負傷した状態では本来の力の半分も出す事が出来ない。
 男としてはかなりの不名誉だが『逃げ』という決断を下し瞬時に扉まで走り出す。しかし紗霧よりも素早く、灰褐色の髪をしたもう一人の男が回り込んで扉までの退路を断った。


「!」


 紗霧は身を翻すが既に遅し。
 後方も茶髪の男によって塞がれる。男は紗霧に向かって両腕を伸ばしてきた。
 捕まるものかと紗霧は咄嗟に左側に飛ぶ。そこに何があるか確認する余裕がなかったが、運が良かったのか体はソファの背凭れに受け止められた。
 紗霧は身体に走った激痛に顔を顰めるが、紗霧が飛んだ先にソファがなければより激しく床に体を打ち付けてただろう。
 ホッと胸を撫で下ろす間もなく、紗霧は置かれてあったクッションを近づく男達に向かって闇雲に投げつける。だがそれらは、いとも簡単に男達の剣によって次々と真っ二つに切られていった。
 紗霧の手がピタリと止まり、悔しそうに唇を噛締める。投げるものは既に無い。
 何か他に投げる物はないかと紗霧は周囲へと視線を走らせるが、手の届く範囲には紗霧が投げられそうな物は何も無かった。
 ソファでも投げつけてやろうかと紗霧は思案する。


「投げるものも尽きたというところか」


 物騒な事を考える紗霧に気付かず、茶髪の男は口角を上げて小馬鹿にするように紗霧の悔しげな表情を見下ろした。
 そして、ゆっくりと手負いの獣を追い詰めるかのように紗霧に迫る。今やその力の差はライオンとネズミほどだ。
 それでも眼に激しい怒りの炎を宿す紗霧を茶髪の男はクククと咽で笑った。
 剣を肩に担ぎ、余裕の態度を見せる。


「良いぜ、逃げろよ。5秒だけ時間をやろう」

「―――駄目だ。遊んでいる場合ではない」


 先程から一言も声を発してなかった灰褐色髪の男が、紗霧で遊ぶ茶髪の男の態度を窘める。『なんだと!』とばかりに睨みつけたが、灰褐色髪の男の無言な圧力に負け、舌打ちすると肩に担いでいた剣を下ろす。


「・・・つまらん奴め。―――仕方ない。遊びはお終いだ」


 今度こそ紗霧を拘束しようと茶髪の男は紗霧に近寄った。
 しかし紗霧とてそう大人しく掴まるわけにはいかない。ソファを壁にすべく、背凭れに足をかけた。
 だが紗霧の努力も空しく、茶髪の男は紗霧の左腕を掴み上げる。


  「っく!離せ!!」


 それでも紗霧は諦めなかった。拘束された腕を解こうと男の急所に向かって力の限り蹴り上げる。
 窮鼠猫を噛むとは正にこのことだろう。紗霧の蹴りは見事にヒットした。


「ガァッ!!」


 紗霧を拘束する男の腕の力が弱った。その隙を狙って紗霧は拘束された腕を引くが、男の腕は咄嗟に逃げ打った紗霧を再び捕えようと伸ばされる。その腕は紗霧を再び捕まえる事は出来なかったが、紗霧の腕に填まっていたブレスレッドを引き千切った。
 そう、ウィルフレッドからの贈り物である真珠のブレスレッドを。
 バラバラになった真珠は紗霧と男の間で舞うと、パラパラと地面に転がってゆく。


「痛っ!!!!」


 紗霧は男の腕から逃れた反動で地面に叩きつけられる。その激しい衝撃に顔を歪めた。


「〜〜〜こ、の女ぁぁああぁぁ〜〜〜!!!!!!!!!!」


 急所を蹴られた男は顔を真っ赤に憤ると、怒りのまま紗霧に剣を振り上げる。


(もう駄目か!?)


 剣の軌跡から眼を逸らす事無く紗霧は凝視する。


「!?ッ・・・!」


 だが紗霧は、その軌跡を最後まで眼で追う事が出来なかった。
 何故なら剣が引き裂くより早く、灰褐色髪の男が素早く紗霧の背後に回り込むと紗霧に当て身を食らわせたのだ。
 体の力が抜け、フラリと倒れかけた紗霧を灰褐色髪の男が咄嗟に支える。


「・・・馬鹿が。油断するからだ」


 茶髪の男を冷めたように一瞥する。
 紗霧を切り捨てようとした剣は、紗霧を髪の毛を掠っただけで済んだ。


「おい!俺の邪魔をするな!!」

「殺せという命令を我々は受けていない」

「っ!―――×××××っ!!」


 押さえ切れない憤怒を発散させるかのように、男はソファに向かって何度も剣を振り翳した。
 ソファは無残にも男の剣で引き裂かれてゆく。
 思いのままソファを斬りつけた事に満足したのか、茶髪の男は漸く剣を下ろした。


「行くぞ」


 荒い呼吸を整える時間を与えることなく、紗霧を抱き上げた灰褐色髪の男は窓に向かって歩を進めた。


「ハァハァ・・・っく。・・・あぁ」


 剣を腰の鞘に仕舞うとその後に続く。
 男の腕の中でまだ僅かに意識の残っていた紗霧だが、その耳には二人の会話は届く事はなくただ一人の姿を脳裏に浮かべていた。


(ウィル―――)


 そして紗霧の意識は暗闇の中へと吸い込まれるようにして消えていった。









                                            update:2006/8/13






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