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 涼しげな風がウィルフレッドを撫でた。
 先程まで日中夏の輝ける太陽の熱を存分に吸収した地からは熱が発せられ、日が暮れてもなお額からは汗が吹き出たが、それも深夜近くになるとようやく心地良く感じる気温まで下がる。
 ウィルフレッドは涼を取ろうと自室からバルコニーに続く窓を僅かに開いて風を取り入れていた。
 僅かな隙間から室内に入り込んだ風は燭代の上に置かれた蝋燭の炎を揺らし、ソファに座して血のような色合いのワインを舌の上で転がしていたウィルフレッドの火照った身体の熱を適度に冷ます。
 蝋燭の灯りの中で浮かび上がったウィルフレッドの瞳はアルコールの所為などではなく、どこかゆらゆらと揺れている。
 軽く目蓋を閉じると何かを振り払うかのようにウィルフレッドは一気にグラスの中身を呷った。空になったグラスに再びワインを注ぐべく、側に置かれたボトルを手に取ると溢れそうな程なみなみと注ぎ足す。
 そこへ人の耳へ届くかどうか解らない程に小さく扉を叩く音が、グラスを傾けていたウィルフレッドの耳に微かに届いた。


「・・・ウィル、未だ起きているか?」

「アークか。どうした?」


 ウィルフレッドから返答があったことで室内へと足を踏み入れたアークライトだが、その纏う空気はどこか緊張して張り詰めていた。
 何時もと調子が異なるアークライトに、ウィルフレッドは怪訝そうに眉根を寄せる。


「こんな遅い時間に悪い。ウィルに今すぐ目を通してもらいたい報告書が2つ程あるんだけど・・・」

「あぁ解った。どれだ?」

「ウィル・・・」

「ん?」

「・・・・・・いや。先ずはこれを―――」


 アークライトは一瞬言葉を詰まらせるが、緩やかに頭を左右に振ると手にしていた書類の束の一つをウィルフレッドに手渡した。
 手にしていたグラスを側に置いて書類を受け取ったウィルフレッドは早速書類に眼を走らせる。


「・・・ほぅ。成る程な」

「そう。報告書のとおり、誰の差し金か判明したよ」


 綴られた文字を追っていたウィルフレッドの眼がスッと細められる。
 報告書に記されていた内容は、これまでアークライトが密かに調査を行っていた紗霧とローデン公爵の娘イリスを連れ去ろうとした者の背後の調査結果と、城内に潜り込んでアークライトの行動を逐一見張っていただろう密偵の背後に潜む者の調査結果だった。

 報告書の名が示すのは一つ―――『レスター公爵の息女ヴェレス』。

 5大貴族として現在城でウィルフレッドの正妃候補者として滞在しているヴェレスその人であった。
 アークライトがヴェレスの名を始めて目にした時、驚きのあまりに言葉を飲み込んだ。
 正妃候補者が城へ召集され約半月。
 アークライトのヴェレスに対する印象は『比較的大人しい』であったからだ。眼を血走らせ、他の候補者を蹴落そうとする者達からはどちらかといえば一歩引いた存在の彼女。
 そのヴェレスが、まさかこの様な大それた事を陰で行っていたという事実はアークライトを驚愕させた。
 この事実が明るみに出れば間違いなくレスター家は5大貴族の名を剥奪され財産は全て没収される。それどころか実行犯のヴェレスは一生牢獄へと繋がれるか、あるいは最悪死罪となる可能性だってあるのだ。
 アークライトの困惑を余所に、ウィルフレッドはこの調査報告書を無言のまま最後まで捲る。


「・・・随分舐められたものだな」


 報告書を全て読み終えたウィルフレッドの獣が唸るような第一声。
 その表情は全くの無。
 否、表情からは察する事は出来ないが、ウィルフレッドの纏う空気が何よりもヴェレスに対して激憤しているという事実を雄弁に物語っていた。
 瞳に烈火の如く激しい怒りを湛えたままウィルフレッドは顔を上げる。


「アーク、夜が明け次第ヴェレス嬢を捕えろ」


 ウィルフレッドは書類を叩きつけるように机に投げつけた。
 叩きつけられた書類は、ウィルフレッドの怒りの度合いを示すかのようにバンッと強音が室内に響き渡り、注がれたばかりのワインの入ったグラスを倒す。
 机上には一瞬にして赤が広がった。
 それを横目にして、アークライトは手にしていたもう一つの書類をウィルフレッドに差し出す。


「了解。・・・・・・・最後にこれを」

「何だ?」

「・・・シュリア嬢の調査報告書だよ」

「シュリアの?」


 『そういえば』と、ウィルフレッドは紗霧に対して拭い去る事が出来なかった僅かな違和感を晴らすために、アークライトに調査を依頼していた事を思い出した。
 すっかり忘れ去っていた事をアークライトに悟られぬよう、ウィルフレッドは何食わぬ顔で最後の報告書をアークライトの手より受け取る。
 パラパラと読み進めていったウィルフレッドは瞬間息を呑み込んだ。


「・・・・・・・・・・どういう事だ」

「そこに記載されている通り。シュリア嬢は偽者の可能性があるってこと」

「―――っ!」

「ウィル、残念だけど・・・」


 報告書には、グレイス公爵の息女シュリアは半年前から前王が崩御し正妃候補として城へ召集されるまでの間行方知らずとなっていたと記載されていた。
 その間シュリアと入れ代わるかのように、突然グレイス公爵の屋敷に住み始めた者がまるで彼女と双子の様に良く似た少年らしいという事。
 少年の身元は不明だが、今より約2ヶ月前から屋敷で見かけるようになったと屋敷に出入りしている者の証言があり、そしてシュリアが城へと召集された後はその少年の姿を屋敷で見かける事が無くなったとある。
 それだけではない。少年に関しては他にも数多くの証言がある。
 2ヶ月前といえば、丁度前王が崩御した時期と重なるではないか。
 この偶然では片付ける事が出来ない事実の一致にウィルフレッドは唇を噛締める。
 少し前ならば『シュリア』が少年かもしれないとの報告に軽く笑い飛ばしていたかもしれない。
 だがウィルフレッドは紗霧に対して疑いを抱いてしまったのだ。
 アークライトには告げてはないが、昼間紗霧が馬の背から振り落とされた時に必死で紗霧を受け止めたウィルフレッドは、抱き締めた紗霧の身体が女性特有の丸みを全く帯びてないのに気がついた。
 幾ら少女とはいえども、それなりに発達はあるはずだ。
 ドレスの上からだといってもその胸はなだらかで、到底発育が遅れているという言葉だけでは片付けられるものではない。
 その様に疑問を抱いてしまった事もあり、ウィルフレッドはアークライトが差し出した報告書はまるっきり虚偽ではないと結論をせざる得なかった。


(・・・グレイス公爵は私を謀ろうとしたのか?では・・・シュリアも私を騙して・・・いるの、か?)


 『シュリア』ではないかもしれないと報告書が告げる結果にウィルフレッドは愕然とする。
 信じられない、否、信じたくないとばかりにウィルフレッドは報告書をグシャリと握り潰した。
 項垂れるようにウィルフレッドは左手で顔を覆う。
 アークライトはそんな脱力したかのようにソファに凭れ掛ったウィルフレッドに対して憐れみの眼差を向けた。


「・・・どうする?シュリア嬢も捕えて真偽を問うか?」


 ウィルフレッドやアークライトといえども、嫌疑がかかっているとはいえ5大貴族としてある紗霧のドレスを強引に剥いて調べる事は出来ないのだ。つまり、真実を知るためには紗霧を拘束して自らの口で告白してもらわなければならない。
 だがウィルフレッドは無言で首を左右に振る。


「いや・・・。己の耳でシュリア自身の口から真実を聞きたい」


 ウィルフレッドの中で、言葉に表す事が出来ない混沌とした感情が吹き荒れる。
 騙されていたかもしれない。
 そうではないかもしれない。
 だが報告書が示す内容は偽者ではないと否定する材料は無い。
 数々の証言が寧ろ濃厚に『黒』だと示している。
 ウィルフレッドは組んだ手に額を乗せると自問した。


(もしシュリアが私を騙していたのならば、私は・・・)


 己の取るであろう行動が予測出来ない。
 怒りに任せて牢に繋ぐのか。
 ウィルフレッドを謀った罪で死罪にするのか。
 それとも―――。
 ウィルフレッドは揺れる心の葛藤を振り払うかのように勢いよく立ち上がると扉へと足を向けた。
 そんなウィルフレッドの行動に驚いたのはアークライトだ。


「おい!今からか!?」

「・・・早い方が良いだろう」

「そうだけど・・・」


 アークライトは『今、真夜中だよ?』とウィルフレッドの後方にある飾り棚の上に置かれた時計を指すがウィルフレッドはその言葉に耳を傾けず、傍らに置いてあった剣を手に取るとアークライトに背を向けて部屋を後にした。
 パタンと扉が静かに閉じる。
 部屋の中に一人残されたアークライトは重い溜息を吐いた。









                                            update:2006/8/8






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