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 突如暴れ出した馬の背から投げ出された紗霧の脳裏には『落ちる』という言葉が横切った。景色はスローモーションの様に流れるが、それでも確実に重力に従い落下しているという事実は、紗霧にとってまるで他人事の様だ。
 だが直ぐに我に返ると、着地に備えるべく身体を捻った。


(××っ!!間に合わない!?)


 紗霧の行動が後もう少しだけ早ければ、あるいは着地に成功していたかもしれない。だが時は既に遅し。それでも紗霧は咄嗟の判断で落下時の衝撃を少しでも和らげようと身体を宙で丸める。
 そして受身の態勢でギュっと目を閉じ、唇を噛締め地面に叩きつけられる衝撃を待つ。
 ドサっという音と共に、紗霧の身体はとうとう地面へと投げ出された。


「・・・・・・・・・・・・・・・あり?痛く、ない??」


 だが紗霧が予測していた以上に身体に受ける衝撃は無い。訝しみながら身体を起こした紗霧は背後から何かに引っ張られた。
 見ると背後から腰・胸元に力強い二本の腕が回っているではないか。驚く紗霧の耳元で、微かな呻き声が聞こえた。
 『まさか』、と紗霧は恐る恐る背後を振り返る。


「ウィル!?」


 落馬する紗霧を庇ったのだろう。紗霧の下敷きになったウィルフレッドが倒れていた。ウィルフレッドは紗霧から腕を離すと地面に手を着いて身体をゆっくりと起こす。
 その様を紗霧は呆然と眺めていた。


「つっ・・・大丈夫、か?」


 紗霧を庇った所為で受けた痛みに顔を顰めながらも、紗霧に向かってウィルフレッドは柔らかく微笑む。
 『怪我はないか?』と続けて問うウィルフレッドに、紗霧は無言のままだ。


「シュリア?」


 ウィルフレッドを見上げたまま身動き一つしない紗霧に戸惑いながらも右手を伸ばすと、紗霧の顔に掛かった髪を優しく払い退ける。


「どうした?どこか痛むのか?」

「―――っ、ウィル!!」


 不安げに眉を寄せてウィルフレッドは紗霧の顔を覗き込む。
 だが勢いよくウィルフレッドの身体の上から退いた紗霧は、ガシッとウィルフレッドの顔を両手で挟むと険しい表情で問いただした。


「怪我!ウィル、怪我は!?どこか痛いところある!!??」

「・・・それは私の台詞だ」

「俺はウィルが庇ってくれたから怪我はないよ!ウィルこそ!!」

「私も怪我はない」


 紗霧を安心させるかのようにウィルフレッドは両手を広げると、紗霧に対して怪我がないことを証明してみせた。


「・・・よ、良かった〜〜〜〜〜〜」


 ホッと胸を撫で下ろす。
 ウィルフレッドの顔を挟んでいた両手をダラリと力無く下ろすと、紗霧は己の顔をウィルフレッドの左肩に埋めた。
 そんな紗霧の行動に始めは戸惑ったウィルフレッドだが、直ぐに紗霧の背に両腕を回すとギュっと強く抱き締める。


「無事で安心した。心の臓が止まるかと思ったぞ」

「・・・ん。庇ってくれてありがとう」


 打ち所が悪ければ最悪死に繋がる恐れがあったのだ。紗霧も両腕をウィルフレッドの背に回すと、改めて己の無事を噛み締めた。


「あ〜、・・・コホン」


 不自然な咳払いが響く。
 紗霧は慌てて顔を上げると、そこには腰に手を当て、困惑顔のアークライトが見下ろしていた。


「二人とも怪我は?」


 にっこりと笑顔を向けるアークライトとその傍らにセオドアの姿が在った。
 どうやらセオドアの手を借りて馬を落ち着かせる事に成功したのだろう。アークライトの馬の手綱を握るセオドアは、紗霧とウィルフレッドの抱擁する姿を直視するのは申し訳ないとでもいうかのように顔を赤らめて視線を僅かながら逸らしている。


「――っうわぁああ!!!!!!何してんだよ!何してるんだよ俺ぇええぇぇえ!!??」

「シュリア!?」


 飛び上がるようにしてウィルフレッドから離れた紗霧の顔は、カァっと一瞬にして真っ赤に染まった。
 そして常人より優れた運動神経の賜物か、怪我した箇所を庇うように左足と左手のみで起き上がると、片足でヒョコヒョコと飛びながらこの場を逃げ去るように後にする。
 その紗霧の後をセオドアが慌てて追い掛けて行った。
 常ならば真っ先に追いかけたであろうウィルフレッドは何故か紗霧の背を黙ったまま見送り、そして先程まで抱き締めていた己の両腕を食い入るように見つめる。
 どこか戸惑うような表情に、アークライトは『どうしたんだ』と首を傾げながら近づくとポンっとウィルフレッドの肩を軽く叩いた。


「ウィル?」


 ウィルフレッドは一瞬だけビクッと身体を強張らせる。
 だが直ぐに我に返ると眉間に皺を刻み、何事も無かった様にギロリとアークライトを鋭い視線で睨み上げた。


「・・・・・・・・・・・・・・邪魔をするな」

「は?」


 ウィルフレッドのあからさまな舌打ちに、アークライトは『何だ?』とばかりにウィルフレッドの顔を凝視する。アークライトは苦虫を噛み潰したようなウィルフレッドの顔つきに眼を見張った。


「ウィル、お前・・・」

「アーク。この度の所業は許しがたいが、今回ばかりはこの場で流そう。しかし二度目はない」

「あ〜〜・・・・・・・・・・・はいはい。解りました」


 ウィルフレッドはもう一度アークライトに鋭い視線で睨みつけるが、直ぐにフイっと別の方向へと視線を向ける。
 その視線の先には紗霧の姿。
 紗霧を見つめるウィルフレッドの眼差しはゆらりと揺らいだ。
 アークライトもウィルフレッドの視線を追い、そこに紗霧の姿を見つける。


「・・・でもシュリア嬢、か。良いね彼女。俺も好きだな」

「―――何だと?」

「睨むなって。そういう意味じゃないよ」


 ウィルフレッドの過剰な反応にアークライトは呆れた様に肩を竦める。


「ま、いいけどね。・・・・・・彼女には真実を話したのか?」

「・・・・・・・・・・・」

「そう・・・」

「・・・今は未だその時ではない」


 『その時』を見定めるかのように、ウィルフレッドは視線を再び紗霧に向ける。
 どこか縋り付くような眼差しに、アークライトはこれ以上の言葉を飲み込んだ。
 ウィルフレッドの正妃選びが始まって既に約半月が経つ。つまり残された時も後約半月という状況に、本来ならウィルフレッドは悠長に時を見定めている場合ではないのだ。
 言いたい事は沢山あるが、ウィルフレッドが未だというのならばアークライトはどうする事も出来ない。ただこの状況を見守る事しか出来ないのだ。


「でも、それほど多くの時は残されてないよ」

「重々に承知しているさ」


 アークライトの忠告をウィルフレッドは表情堅く頷いた。
 周囲に重い空気が漂い始める。だが次の瞬間、ウィルフレッドは再び目を吊り上げると素早く立ち上がった。
 突然立ち上がったウィルフレッドに何事かとアークライトは身体を後ろへ引く。戸惑うアークライトの側をウィルフレッドはスッと通り過ぎると、驚くほどの脚力でこの場を後にした。
 その背には、何故か収まったはずの殺気が漂っている。


「お、おい!?」


 片手を上げて止めようとしたが、ウィルフレッドとアークライトとの間には既にかなりの距離が開いていた。アークライトはやれやれと溜息を吐くと、ウィルフレッドが向かった先を目線で辿る。
 その視線の先には、素晴らしい片足歩行で立ち去った紗霧がバランスを崩して倒れたのだろう。紗霧の身体を胸の中で受け止めるセオドアの姿が目に映った。


「・・・成〜る程。―――くくくっ、しかしウィルの余裕の無い顔なんて初めて見るよ。それ程までにシュリア嬢にご執心って訳ね」


 セオドアの手を借りて体勢を整えようと奮闘する紗霧をセオドアの腕の中から奪い返すようにウィルフレッドは抱き締める。
 驚きに目を見張る紗霧とザァッと青褪めるセオドアの姿にアークライトは苦笑しつつ、『さて、どうしたものか』と不穏な空気が漂う場にいるセオドアに助け舟を出すべく、ゆったりとした歩調で紗霧達の方へと向かった。









                                            update:2006/8/5






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