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「・・・ん。お休みなさい、ウィル」


 背を向けて部屋の外へと出たウィルフレッドの耳に、紗霧のどこか硬くなった声音が届いて思わず眉を顰める。扉が閉まる寸前にウィルフレッドは紗霧の方へと視線を向けると、そこには子供が親から離れ見知らぬ場所へ置いてきぼりされるような、そんな途方に暮れた表情をした紗霧がいた。
 これまでの紗霧との関係が変わってしまう事をウィルフレッドは嫌でも感じ取る。だがそれでも、自分の言葉は嘘偽りの無い真実であり、思わず想いを告げてしまった事に後悔はしていない。
 そう己に言い聞かせるが、それでも胸に渦巻く得体の知れないモノに不安を隠せなかった。


 ウィルフレッドの目の前で扉が静かに閉まる。
 しかし閉じた扉の前でウィルフレッドは暫し無言で佇んでいた。


(シュリアは私の事を―――・・・否、今は何も考えまい。時間は未だ残っている)


 何度もそう繰り返して、不安定に揺れる己の心を沈める。
 ピタリと閉じた扉に背を向けると、ウィルフレッドは自分の部屋へと戻るべくその場を後にした。途中ウィルフレッドに気付いた兵が慌てて敬礼するが、それには目もくれず、物思いにふけながらひたすら歩を進める。


(・・・・・・・・・私は何時からシュリアの事を想っていたのだろうか)


 紗霧への想いに気付いたのは間抜けにもつい先程だ。
 それまでの感情は、これまで身近に居なかった種の者に対してへの単なる強い好奇心だった。


 愛らしい容姿に見合わず何らかの武術を習得していたこと。
 貴族の娘にもかかわらず口調が乱暴であったこと。


 ―――いや・・・単に好奇心だと、そう思いたかっただけかもしれない。
 何故なら紗霧という人物に接すれば接するほど新たなる一面が見え、それが必然でもあるかのように紗霧という個体に惹かれていった。


 揺るぎない確固たる信念を持ち合わせていたこと。
 己の事より、他者を思いやる気持ちを持ち合わせていたこと。
 そして、その者がどんな人物であろうと人を守るためには例え刃の前でも一身を投げ出して立ち塞ぐ勇気があること。


 それを裏付けるかのように、紗霧に惹かれてゆくこの想いを気付く事が出来る兆候は何度もあった。
 しかしその想いに目を瞑り、時折湧き上がってくる愛しいという感情を高い壁で囲って気付かない振りをしていただけかもしれない。
 ウィルフレッドにとって、人を愛するという感情は恐怖の対象でしかなかった。愛が深ければ深いほど、最愛の者に裏切られた時にはその絶望は深くなる。裏切られたとは多少異なるが、最愛の妻に先立たれた前王は絶望という負の感情全てをウィルフレッド一人に向けたといってもよい。
 その出来事を語るには心に刻まれた傷の根が深すぎて未だ出来ないが、紗霧を想う『愛しい』という感情を受け入れたウィルフレッドにとって、今後、前王の負の感情を理解しないまでも、徐々に受け入れていく事が出来るかもしれない。
 どこかそう考える自分がいることに、父王に対して憎しみが大きかったウィルフレッドは驚きを隠せなかった。


(受け入れる、か。今までの私ならそう思うことさえ到底考えられない事だな)


 アークが聞いたらどんな顔をするか、とウィルフレッドは目を大きく見開いて驚愕するアークライトを思い浮かべて軽く噴出した。
 幼い頃からウィルフレッドの傍らに居たアークライトは、前王に向けるウィルフレッドの感情を誰よりも理解している。だからこそ、ウィルフレッドの前王に対する感情が軟化したと知れば驚き、そして喜びに顔をほころばせるだろう。


(しかし、アークの奴。シュリアを抱き締めた事は許しがたい)


 昼間の出来事が瞬時に脳裏を掠める。
 気配を消す事に長けたアークライトは、均等する実力を持つウィルフレッドにさえ時にその気配を気付かせる事はなかった。
 アークライトの腕の中に抱き締められた紗霧を見た瞬間、ウィルフレッドの視界は一気に赤く染まる。それは何故かと考えるより先に、身体が勝手に動いてアークライトから紗霧を力任せに引き離した。だがその後、又もや紗霧に近づいたアークライトの間に己の身体を割り込ませたのも無自覚の嫉妬心からだろう。


(あれが俗にいう嫉妬、なのだな。―――ならばアレも嫉妬した・・・という事になるのだろうか・・・)


 ウィルフレッドはその出来事を思い出して苦笑する。


 それは、紗霧が修練場へと通い始めて直ぐの事だ。
 早朝から修練場へと顔を覗かせた紗霧は、兵へ体術指導をしていたウィルフレッドを見かけると声をかけて来たのだが、直ぐにウィルフレッドに背を向けて何処かへと行ってしまった。ウィルフレッドは不思議に思ったのだが、特に気に留めることなく兵への訓練を再開する。


『―――よし、私からの指導はこれまで。ではそれぞれ二組に別れて実戦するように!!』


 兵にそう告げて、ウィルフレッドは暫しの間身体を休めるべくその場を後にした。
 そして休息を取る為に向かった修練場の傍へと建てられた建物に近づくにつれ、ウィルフレッドの耳に何やら賑やかな声が聞こえてくる。
 その気配にウィルフレッドは首を傾げた。
 この先、暫く実戦がないとはいえ兵達の訓練に対する姿勢は何時も真剣だ。何故ならば親衛隊が守護する者はこの国の将来を担っていく人物であり、だからこそ親衛隊に課せられた役目は決して軽いものではない。
 その為に親衛隊は他の隊よりも遥かに訓練が過酷であった。難関を潜り抜けて親衛隊へと入隊したのは良いがその訓練の余りの過酷さに時には除隊する兵も少なくない。
 しかし今は修練場の一角に緊迫した空気は全くない。それどころか、どこか柔らかい気配が漂ってくる。
 不思議に思ってウィルフレッドがその一角へと足を向けたその時、何やら聞き覚えのある声が耳に届く。


『ここで木剣を高く掲げまして・・・えぇ、そうです。そのまま振り下ろしてください』

『そのまま振り下ろす、と。―――ん!!』

『そうです。お見事ですシュリア様』

『・・・成るほど。こっちの型の方が反撃するまでの時間が短縮するんですね。・・・・・・・ん?あれ、ウィル??』


 ウィルフレッドの気配に気付いた紗霧は、顔を上げてその存在を認識すると笑顔を向けた。傍で紗霧に指導していたらしいセオドアもウィルフレッドの気配に気付くと目礼する。


『お疲れ、指導は終わったの?』


 木剣を手にしたままウィルフレッドの傍へと駆け寄った紗霧に、ウィルフレッドの相好は柔らかく崩れる。


『あぁ・・・、シュリアは何をしているのだ?』

『俺?俺はセオドアさんに指導してもらっていたところ。セオドアさんって凄いよ!物凄く解り易いんだ!!それでね、セオドアさんって――』


 顔全体を喜色満面にして生き生きとセオドアを褒める紗霧の言葉を耳にする度に、ウィルフレッドは何故か胸の辺りからジワッと湧き上がる気分の悪さに顔を顰めた。
 二人の仲が急激に近づいたことを紗霧のセオドアに対する態度だけでなく、その口調からも隔たりが小さくなったことをウィルフレッドは感じ取る。


『そうか・・・』


 顔を引き攣らせながらも、己の状態を紗霧に悟られまいとウィルフレッドは必死になって顔に笑顔を貼り付けるが、それは長くは持たない。背後から黒い気配が湧き上がる前に、セオドアを誉めちぎる紗霧の言葉を止めるべくウィルフレッドは別の話を紗霧に振った。


『ならば、今度は私が教えよう。模擬試合でも構わんぞ』

『本当!?いいの!!??』

『あぁ、だから私の木剣を準備してくれないか』

『解った。―――ご指導、有り難うございましたセオドアさん!』

『いいえ、少しでもお役に立てたのなら光栄です』

『ウィル、直ぐに戻ってくるからそこで待ってろよ!』


 ぺこりとセオドアに頭を下げた紗霧は、ウィルフレッド用の木剣を手にするべく建物の中へと消えていった。その後ろ姿が消えるまで見送ったウィルフレッドは、視界から紗霧が消えたのを確認するとセオドアに向き直る。
 だが、先程紗霧に見せていた笑みは跡形もなく消え、その目は鋭く細められていた。


『―――セオドア』

『は、はい』


 ウィルフレッドから発せられた冷気のような声に、セオドアの背筋から冷たい汗が一筋流れた。セオドアは顔を引き締めてウィルフレッドに改めて正式に敬礼する。


『今後、シュリアへの指導は私自らが行う。余計な手出しは無用だ』

『はい!勝手な振る舞い、申し訳ございませんでした』


 セオドアは90度に腰を折るとウィルフレッドに謝罪する。その時、紗霧が戻ってきたのでこの話はこれで終わったのだが。


(気付かなかったとはいえ、セオドアには悪い事をした)


 セオドアの青褪めた表情が脳裏に浮び、ウィルフレッドはすまないと心で軽く詫びる。


(決め手はやはり、シュリアの『言葉』だろうな)


 ウィルフレッドはアークライトを始め、セオドアや己の親衛隊と信じられる者は少ない。ウィルフレッドを敵視する者はそれこそ数多かった。それはアークライト以外の身内もそうだ。
 何かと難癖つけてはウィルフレッドを第一王位継承者として相応しくないと前王へ訴え続けたが、当然の事ながら前王は取り合わなかった。ウィルフレッドに第一王位継承者としての資格を残したまま前王は崩御したが、第一王位継承権をウィルフレッドが有するという事に未だ不満の声を上げる親族の者は多い。
 身内にさえ不信感を抱いていたウィルフレッドに紗霧は『信じる』という言葉を贈ってくれた。その言葉はウィルフレッドが王子という正体を隠していなければ、きっと聞く事が出来なかった言葉だろう。


(そうか・・・これは運命だったのかもしれない)


 自分は決して運命論者ではない。だが、王子として紗霧の前へ出る事がなかったにも拘わらず紗霧と出会い、そしてその後の深い関わりは決して偶然だとは思えないのだ。


「・・・・・・・・・・・愛している」


 静かに紗霧に対しての想いを口にするが、誰も居ないこの場での囁きはウィルフレッド以外の者が耳にすることなく夜の闇へと消えて行く。だがウィルフレッドは気に留めることなく、新たなる決意を胸に秘め、紗霧の居住する棟に背を向けた。









                                            update:2006/5/25






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