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 背後から伸びた長い手は紗霧の右肩を掴むと、手の持ち主のいる方向へとグイっと抱き寄せた。咄嗟の事であったため紗霧は何の抵抗もなく力のかかった方へと身体が傾き、堅い胸へと抱き寄せられる。
 その行為によって、紗霧は座っていた椅子から自然に立たされた。


「なっ!?」


 紗霧がすっぽりと収まったその腕の中から、その者が身につけた香料がふわりと漂った。それは甘い香で決して嫌な匂いではない。


(―――っ、こいつ何者!?この俺が背後の気配に気付かなかったなんて!!)


 肩を抱き寄せる腕には益々力が込められる。両腕で必死に抵抗しても全くびくともしない腕の力に、紗霧はとうとう拳を握り締めた。


「い〜かげんに―――っ!!」

「―――ふざけるのも大概にしろ」


 何時の間にかに笑いが収まったのか、ウィルフレッドは紗霧を抱き寄せる男の腕の中から力任せに紗霧を引き離す。
 ウィルフレッドのその声に何だか険があったように感じたのは紗霧の気の所為だろうか。
 腕の中から解放された紗霧は、真っ先に自分を抱き寄せていた男の顔をキッと睨む。紗霧の向けた鋭い視線の先には忘れようにも忘れられない、見知った顔が笑みを浮かべて紗霧にひらひらと手を振っていた。


「こんにちはシュリア嬢」


 紗霧はここに居るはずのない人物をその眼で確認した瞬間、ピシリと硬直した。


(・・・・・・・・は?何でココにこの人が居るの??――え?えぇ!?えぇぇええぇえ!!??)


 立ったまま夢を見ているのではないかと、紗霧は何度も瞬く。だが消えることのない目の前の人物に、紗霧はこれは現実であって夢でも幻でもないと、この場の状況をやっと呑みこんだ。
 紗霧は動揺のあまりに目の前の人物を指差してしまい、その者の呼称を叫ぶ。


「ぅおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお、王子!!!!!?????」

「そ。久しぶりだね。体調の方はもう大丈夫かな?」


 咄嗟に何のことだろうと首を傾げた紗霧は、そういえばと体調が優れない事を理由に接触を避けていた事を思い出す。
 王子と呼ばれたアークライトは、記憶を探っていた為に隙のあった紗霧に近づくと、華やかな笑顔を浮かべた顔を覗き込むように近づける。その距離の近さにハッと気付いた紗霧は、僅かに仰け反った。


「あ、はい。げ、元気、デス」

「それは良かった。随分心配したんだよ」


 本当はウィルフレッドの話から紗霧が仮病をつかっていたということをアークライトは気付いていたが、その事はおくびにも出さずに本気で紗霧の事を気に留めていたという様に憂えた表情を浮かべた。


「す、すみませ――」

「何の用だ」


 ウィルフレッドは紗霧に顔を近づけたアークライトの左肩を掴むと紗霧から離すように後ろへ引き、紗霧とアークライトの間に割り込んだ。


「うううううううううううううううううううううう、ウィル!?ちょ、拙いよ!」


 紗霧は目の前にあるウィルフレッドの背中の服を引っ張るが、ウィルフレッドはアークライトを見据えたままだ。


「・・・ったく。俺にシュリア嬢と会話をさせない気か。・・・何の用もございません。慣れない仕事をどっかの誰かさんに強引に押し付けられた所為で疲れた身体と心を癒しに遊びに来ただけだよ」

「そうか、だがもう十分に癒えただろう。ならば帰れ、邪魔だ」

「十分って・・・しかも邪魔って。酷いなぁ」


 ウィルフレッドの素気無い言葉にアークライトは肩を竦めると溜息を吐いた。
 アークライトは『邪魔』という言葉に対して何とも思っていないようだが、驚愕したのはウィルフレッドの後ろで会話を聞いていた紗霧だ。


「だだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだだ、だから、ウィルっ。あ、相手は王子だよ!!!???」

「それが何だ」


 ぐいぐいっと先程より強くウィルフレッドの隊服を引っ張る。ようやく首だけ紗霧を振り向いたウィルフレッドのその表情は、心底不思議そうだ。


「何って・・・」


 こいつ本気で言っているのか?
 紗霧はウィルフレッドを訝しげに見るが、それでも変わらないウィルフレッドの表情に首を傾げた。
 そんなウィルフレッドをフォローするかのように、アークライトは紗霧に向かってニッコリと微笑む。


「いいのいいの。シュリア嬢、気にしないで。ウィルは俺の従兄弟だからね」

「従兄弟!?って事は、ウィルって王族関係者!!??」


 咄嗟にウィルフレッドの顔を見上げるが、ウィルフレッドは紗霧の視線から顔を逸らす。


「・・・・・・余計な事を。―――おい」


 顔を逸らしたウィルフレッドだが、何かに弾かれたようにアークライトを見る。アークライトもウィルフレッドの視線を受け止めると、眉を寄せて頷いた。


「あぁ。・・・・・・変だ。何故俺がここに居る事が解ったんだ?誰にも邪魔されたくなかったから裏道を使ったはずなのに・・・」


 先程とは打って変わって二人のその表情は険しい。紗霧は不思議に思って二人が向けた方角へと自分も視線を向ける。


「うわっ・・・」


 紗霧の向けた視線の先には、ドレスの裾を翻して物凄い勢いで突進してくる4人の女性の姿。言わずと知れた王妃候補者だ。
 決して走るのではなく、恐ろしい速度で歩くその脚力に、紗霧は「すげぇ」と無意識に言葉を零す。
 その微かな呟きを耳にしたウィルフレッドは、紗霧を見て苦笑した。


「王子!わたくし達を置いてこの様な埃が舞う処で何をなさるおつもりだったのですか!?
・・・・・・・・・・・あら、失礼」


 美しい顔を怒りで歪めた女性達はアークライトだけではなく紗霧とウィルフレッドをその目に留めると、目を細めて口元を吊り上げた。


「まぁ・・・。そちらにいらっしゃるのは確かグレイス公爵のご息女シュリア様ですわよね。最近お見かけしないと思ったら、このような埃が多い処に出入りなさっていたとは」


 4人の女性達の先頭に立つ赤いドレスを着た女性は、その手に持っていた鳥の羽をふんだんに使用した派手な扇を広げると口元を覆った。その女性に追随するかのように他の女性達も似たような派手な扇を広げると笑みを浮かべる口元を覆う。


「あら違いますわイリス様。シュリア様は、自分に相応しい居場所を見つけらしたのよ」

「まぁ!そうでしたのね。これは失礼。――では王子、わたくし達はわたくし達に相応しい場所へと移動致しましょう」


 紗霧は反論したい言葉をグッと飲み込むと、拳を握り締めて耐えた。頭の中では『あれでも女性。あれでも女性』と呪文の如く何度も唱える。
 紗霧の耐える様子に気付かないのか、気にする様子もない女性の中でイリスと呼ばれた女性はアークライトの左腕にその白い腕を回す。するとそれを見咎めた女性達は、アークライトの残った反対側の右腕を競うようにして群れた。
 その内の一人の女性がアークライトの右腕に喰らいつくようにしがみ付くと、勝ち誇った顔で競い負けた2人の女性を見る。その顔を悔しそうに歪める2人の女性は唇を噛締めて勝利した女性を睨みつけた。
 互いに睨み合う女性達の気付かないところで、アークライトはウンザリとした表情を顔に浮かべる。


「さぁ王子。何時までもこの様な埃っぽい処に居たのでは汚れてしまいますわ」

「わたくし、王子に是非聞いて頂きたい話がございますの。アフタヌーンティーを楽しみながらお話しますわ」


 両腕に腕を絡ませた女性達に促されアークライトはこの場を去る。
 アークライトは去る間際に、ウィルフレッドに厳しい顔で頷き、紗霧には『ごめんね』というような目配せをするのを忘れなかった。

 アークライトを始めとする女性達が視界から消えたことを確認した紗霧は、ぐったりと肩を落とすと深い溜息を吐いた。


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・勘弁してくれ」

「全くだ」


 紗霧に同調するかのようにウィルフレッドも溜息を吐く。


「嫌な思いをさせてすまなかった」


 ウィルフレッドは申し訳無さそうに紗霧を見ると、謝罪の言葉を口にする。
 その言葉に紗霧は慌てて顔を上げると、ぶんぶんと首を左右に振った。


「何でウィルが謝るんだよ??寧ろ俺と一緒に居た所為で、ウィルに不愉快な思いをさせたと思う。ごめん」

「そんなことはない」


 紗霧の謝罪にウィルフレッドは、否定するかのように力強く首を横に振った。
 気にした様子でないウィルフレッドのその言葉に紗霧は胸を撫で下ろすと、改めて彼女達の事を思い浮かべる。


「しかし・・・何ていうか強烈だったね」

「確かに」


 紗霧とウィルフレッドはしみじみと呟く。そして互いの視線を交えると、プッと同時に噴出した。


「あははは〜、な、何だよあれ!?本当に貴族のお嬢様か??」


 決して人のことを言える立場でないはずだが、元々は貴族でない紗霧はすっかりとその事が頭の中から抜け落ちていた。だが、ウィルフレッドは紗霧に同意するかのように頷く。


「くくくっ、物凄い形相で向かってくる様は見物だったな」

「あぁ、アレね!ぶはっ!!た、確かに凄かった〜〜〜!!」


 二人で思いきり笑い、涙の溜まった目尻を拭う。


「あ〜、可笑しかった」


 やっと笑いの収まった紗霧は、椅子に掛けると紅茶をカップに継ぎ足して一気に流し込む。渇いた口の中は紅茶のお蔭で潤った。


「・・・そうだな、気分転換にシュリア。今晩、誰にも見つからずに部屋を抜け出す事は出来るか?」


 ウィルフレッドも椅子に掛けると、紅茶を口の中に流し込む。


「誰にも?出来るけど」


 誰にもということは、気配を消す事の出来る紗霧にとっては簡単な事である。
 疑問に思いながらも紗霧が頷くと、ウィルフレッドは何か企むかのように口角を上げた。


「そうか。ならばシュリアの居住する棟の庭で22時にどうだ?」

「ん。解った、22時だね」

「あぁ」


 紗霧は再び頷くと、再びカップに継ぎ足した紅茶を今度はゆっくりと味わった。









                                            update:2006/4/27






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