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ふわり、と上品な香水の香りが鼻腔を擽った。
とても心落ち着く香りだ。
紗霧はこの名も知らない香りが好きだった。この香りの傍では何時も穏やかな気持ちでいることが出来た。
何故かと理由を問われても答えることなど出来ない。
唯一つ確かなことは、この香りを纏う者が何時どのような状況下においても紗霧を救いだしてくれたという事実だけだった。
「・・・って、何してるんだよウィル!」
うっかりとその香りに酔いしれていた紗霧だったが、ハッと我に返った途端一気に血の気が引く。
「離せ!!」
「断る」
「は?いやいやいやいや、断るって何!?」
「離さない」
「だから何でだよ!?」
必死に身を捩って抵抗するが、身体を包み込むウィルフレッドの腕からは逃れることは出来なかった。
それどころか紗霧を抱き締める腕の力は益々強くなる一方で、背骨はミシミシと悲鳴を上げ始める。拘束の力強さに息も上がった。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜うぅ〜。ウィルの馬鹿っ」
いくら押しても引かないウィルフレッドに紗霧の我慢もとうとう限界を超えた。頑張って耐えていた涙も決壊した涙腺から一気に溢れ出る。
それはこれまで堪えていた反動とでもいうかのように止め処なく溢れ出て、紗霧を抱き締めるウィルフレッドの胸に大きな染みをつくっていった。
***
「あぁ〜〜もう最悪だ・・・」
紗霧は自身に向って悪態をついた。
手の甲で目を擦りながらいい加減に離せとばかりにウィルフレッドの胸を軽く押すと、今度は驚くほど簡単に離れていく。あまりの呆気なさに先程の抵抗は一体何だったんだろうかと思わずにいられない。
絶対泣かないつもりだったのに、と悔しげに呟いて頬を膨らませればウィルフレッドに微笑まれる。それが何だか大人の余裕に見えて紗霧は益々頬を膨らませた。
八つ当たりの様に拳をつくってウィルフレッドの腹を押せば、逆に手を掴まれて引っ張られてしまう。紗霧が気付いた時にはポフっという音と共に再びウィルフレッドの胸の中に収まっていた。
「ウィル?」
顔を上げれば、その至近距離にウィルフレッドの顔がある。
綺麗な顔だ。あまりに整い過ぎて最早嫉妬心さえ抱かない。
格好良い奴はどんな近距離でも格好良いんだな、とどこか冷静な頭で考えていると、突然ウィルフレッドの唇が額に下りてくる。
「ひぇ!?ウ、ウィル!?」
驚いて固まってしまった紗霧をいいことに、それは米神、眼尻を辿って頬へと落とされていった。
ウィルフレッドの唇が触れた箇所が熱を持ったように熱くなる。
紗霧がくすぐったさに抵抗するも、ウィルフレッドはその行為を止めなかった。
「ちょ、待って!」
「サギリ・・・愛している」
「いや、だから待て!待てって!!・・・むぐっ・・っ!?」
あっ、と思った瞬間既に遅く、気付いた時には唇が塞がれた。
「!?っ・・・ふ、ぁ!!」
混乱する紗霧の隙を突くかのように、口内に侵入したウィルフレッドの舌はぬるりと紗霧の舌を絡みとる。
慌てて舌をひっこめてはみたものの、ウィルフレッドの舌は絶対に逃がさないとばかりに吸いつくと難なく紗霧の舌を絡みとった。
(ぎゃぁああああ〜〜〜〜〜ウィルの馬鹿ぁあああ!!こんな所誰かに見られたらどうするんだよぉおおおお!!)
紗霧は状況を考えろと罵倒したかった。ちなみに場所も考えろと叫びたかった。
何せすぐ隣室には先程まで広間にいた人々が待機しているのだ。この状態を見られでもしたら一体どう言い訳するつもりなのだと紗霧は訴えたかった。
「ウィ、ルっ・・・っ、んぁ、頼む、から離せ・・・っ!」
「愛して、いる」
口付けの合間に低く、掠れた声で想いを告げられる。
熱に浮かされたような囁きに紗霧の膝が震えた。同時に得体の知れないゾクゾクとした快感が背筋を這う。
「―――ごめん、ちょっといいかな?サギリ、君にお客さんが・・・」
「っ!?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・もしかしてお邪魔だった?」
不意に上がった声に紗霧の身体がピキンと硬直する。
恐る恐る声のした方へと視線を向ければ、そこには先程退出したばかりのアークライトが扉の前で困惑げに頬を掻いていた。
一応入る前に合図したんだけど聞こえなかったかな、という呟きは最早紗霧の耳に届いていない。
「んんっ〜〜〜〜〜〜!!ん〜〜〜〜〜〜ん〜〜〜!!!」
離れろという意味を込めてバシバシと今度こそ容赦なくウィルフレッドの背中を叩く。
しかしウィルフレッドは紗霧を開放するどころかより口付けを深めてきた。
「あれ?まさかと思うけど・・・・・・お〜いウィルフレッド君。無理強いは良くないと思うけどなぁ」
涙眼で訴える紗霧に気付いたのだろうか。
アークライトは怪訝に眉を顰めながらも暗に紗霧を離せとウィルフレッドに抗議する。
「ん、んっ、んん・・・ぁ、んふ・・・うう、っ!!」
「・・・・・・おい、ウィル。いい加減俺が笑っている内にさっさとサギリから離れろ」
ひゅうううう、と何故か冷気が吹き荒れる。
それは絶対紗霧の気のせいなんかではない。その証拠に今や紗霧の両腕には立派な鳥肌が立っていた。
恐い、けれどこの状況から解放してほしいと願っていると、漸くウィルフレッドの執拗な口付けから解放される。ホッと安心したのも束の間、離れていく際に名残惜しげに唇を啄ばまれてしまった。これまでにないくらい紗霧の顔が朱に染まる。
「大丈夫だった?」
「は、はい。何とかお陰さまで・・・」
ブルブルと恥ずかしさに身体を震わせているとアークライトに気遣れてしまう。
今日一日分の体力を既に使い果たしたような疲労を感じたが、紗霧は無理に笑顔を張り付けて大丈夫だと頷いた。
「・・・・・・アーク、何用だ。私は未だお前を呼び戻してはいない」
「おぉっと、うっかり忘れるところだった。サギリ、君にお客さんだよ」
「へ?俺にですか?」
「そうそう。―――さぁ、こちらへどうぞ」
アークライトが扉を開けて外の人物を中へと招き入れる。
その声に促されるように広間へ足を踏み入れた人を見て、紗霧は驚きに眼を限界まで見開いた。
「っ!!??グレイスさん!?それにシアナさんも!」
信じられないとばかりに何度も瞬きを繰り返す。
夢か幻かと思って二人の姿を凝視すれば、グレイス夫妻はニッコリと陽だまりのような懐かしい微笑みを紗霧に向けて浮かべていた。
update:2009/07/05